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「泰澄の杜」に行きました。
2017/09/07

わがまち ふるさと「山梨県・北杜市」「四つの日本一に誇り」「山梨県北杜(ほくと)市(人口約4万7500人)は、県最北部に位置し、長野県に隣接。13年前前に八つの町村が合併しました。市民が誇りとしているのは「山岳景観」「国蝶・オオムラサキ生息数」「名水の里」「日照時間」の「四つの日本一」です。市内には、瑞牆(みずがき)山や甲斐駒ヶ岳、金峰山など日本百名山のうち五つの山がそびえています。紫色の羽を広げると10aにもなるオオムラサキ。日本を代表する格調高い華麗なチョウとして、60年前に国チョウに指定されました。自然環境測定の目安となる指標昆虫でもあり、「生息数日本一」の認定は豊かな自然環境の証明でもあります。名水百選に選ばれている市内三つの湧水も自慢の一つ。長坂町にある「三分一(さんぶいち)湧水」は、戦国武将・武田信玄が三角形の石柱を用い、湧水を3等分したという言い伝えが残ります。最後の一つが、年間2500時間以上という日照時間日本一ですが、ここ数年、森林を伐採してまで広がる地上型の太陽光発電パネル乱立には、市民の間で自然・住環境への影響を心配する声が広がっています。(志村清市議)」(7日付けしんぶん赤旗「地方・総合のページ」より)平成の大合併で、旧市町村名がなくなると、その場所がどこにあるのか分かりにくくなりました。せめて、高島市のようにどこかで聞き覚えのある市の名前にして欲しいものです。さて、6日(水)は、お休みを頂き、福井県・鯖江市まで足を伸ばしました。「泰澄の杜」は、越前町にあるのですが、鯖江市と福井市に隣接しています。この日は、雨模様で入浴客も少なく、ゆっくりと入浴出来ました。露天風呂に入ると、時々聞こえる「つくつくほうし」の鳴き声が弱々しく感じました。(写真は、泰澄の杜の館内の様子と、その建物の景色です)

稲刈りが始まりました。
2017/09/03

ドキュメント’17「飯塚事件 冤罪を訴える妻」日本系 深夜0時55分「2008年10月28日、久間三千年(くまみちとし)氏の死刑が執行されました。1992年、福岡県飯塚市の二幼女殺人事件の犯人と断定されていたのです。一貫して無実を訴えた久間氏。冤罪(えんざい)と再審を訴える妻の声と地道な取材で、死刑執行は正しかったのかと問いかけます。」「証拠の矛盾と作為 綿密に検証」「執行後、証拠の一つとされたDNA鑑定の疑惑が浮上します。足利事件で未熟な鑑定間違いが判明。飯塚事件の鑑定と同じ技官が同じ方法で行っていました。妻の再審要求に福岡地裁はDNA鑑定を証拠から除きます。しかし他の証拠を認め請求を棄却します。他の証拠とは何か。血液型B型が一致する。弁護団依頼の再鑑定では犯人はAB型でした。現場で目撃された不審車と久間氏の車が似ている。その証言は矛盾に満ち、警察の筋書きに沿うことを明かします。検証過程は緻密で科学的。圧巻です。「無実の人の命を奪うことが許されるのかな、日本は」と妻。再審への高裁決定はまもなくです。久間氏は執行の瞬間も怒りを隠さず、刑務官らに強く抗議したそうです。冤罪と死刑制度の根幹に迫りました。(荻野谷正博 ライター)」(3日付けしんぶん赤旗「試写室」より)この事件も、度々取り上げられましたが、今まで再審請求が認められていません。「今度こそ」の思いが遺族にはあるでしょう。日本全国には、色々な形で冤罪事件が起こり、主な事件だけでも、100件は下らないと思います。冤罪事件に手を差し伸べているのは、「日本国民救援会」と言う全国組織があります。私も会員の一人ですが、毎月送られて来る「救援新聞」を読むと、腹立たしさが募ります。さて、安曇川では気の早い彼岸花が咲き、稲刈りが始まりました。農家からコメを頂いている我が家にも、新米が間もなく届きそうです。(写真は、小浜市・田烏地区でシュノーケルを楽しむ子どもと、人通りもなく静かな住宅のたたずまいと、若かりし頃に(20年ほど前)釣りによく来た漁港の風景ですが、漁船の数がめっきり減りましたが高齢化の影響でしょうか)

65歳と1日となりました。
2017/08/31

「家を支えていくために郵便局に就職した少年は、あの日も配達の最中でした。目のくらむような閃光(せんこう)。後ろから爆風に突き上げられ、自転車ごと数bも吹き飛ばされました。起き上がって手を背中に当てると、シャツはなくなり、拭うとヌルーッとした黒いものがべったりと。左腕の皮膚は地面につくほど垂れ下がっていました。16歳とときに長崎で被爆した谷口稜曄(すみてる)さんです。地獄のなかをさまよい、助けられてからも治療にまた耐えがたい苦しみの連続でした。うつぶせのまま1年9カ月。焼けて腐った肉がどぶどぶと流れ落ち、左腕にはうじがわく。あまりの痛みに「殺してくれ」と何度も叫びました。焼けただれた背中、えぐられた胸、左腕も曲がり、顔にケロイドも残りました。退院してからも偏見や差別にあいますが、同じ思いに悩み苦しむ仲間とともに被爆者運動の先頭に。赤い背中に原爆を背負って国内外を駆け回りました。戦後70年の平和記念式典。安倍首相の前で谷口さんは政府が推し進める改憲と戦争法を「許すことはできない」と痛烈に批判しました。核兵器禁止条約の熱気に包まれた今夏の原水爆禁止世界大会にも病室から「核兵器がなくなるまで、被爆者はたたかいをやめない」と。稜曄の名には「光が届かない所も隅々まで照らす」という意味が込められているそうです。核のない平和な光に満ちた世界をめざし、生き証人としてたたかった88年の生涯。その意志と執念は、いま国境をこえて人々に受け継がれたいます。」(31日付けしんぶん赤旗「潮流」より)日本は被爆国であるにもかかわらず、国連の核兵器禁止条約に対して批准に反対しました。このニュースを聞いた時、この国はいったいどこを目指しているかと思いました。さて、昨日は私の誕生日で、満65歳となりました。夕食は期待していなかったのですが、尾頭付きのタイの塩焼きと赤飯が揃っていました。ビールで乾杯しましたが、感想を聞かれても「よ〜お、今日まで生きて来たな」と言うのが実感です。(写真は、南越前町にある「杣山・花はすまつり」ですが、少し遅かったようです)

カラオケは楽しいな!
2017/08/28

「夏の夜空に咲いた色鮮やかな大輪の華。今年で91回を数える大曲の花火は、打ち上げる強い意志と、めでる人たちに特別な感慨をもたらしました。大会会場の大仙市・雄物川河川敷は前日までの大雨で冠水。一時は開催が危ぶまれましたが、懸命の復旧作業で実施にこぎ着けました。先月も記録的な豪雨に襲われ水害の痕跡が残る秋田県内。被災者の支援と復興への思いを込めた「激励花火」30発も空高く。九州北部の集中豪雨をはじめ、ことしの夏も各地で水の被害が相次ぎました。経験のないほどの大量の雨が降り注ぎ、甚大な被害を与える。近年の特徴は、異常気象をつねに自覚し、それを見越した対策の必要性を教えています。関東や東北の長雨も深刻です。仙台では降水の連続日数が統計開始以来、最長となりました。続く雨や日照不足の天候不順は農作物にも影響し、すでに野菜は値上がりしています。高温多湿のもとで食中毒も多発しています。国立感染症研究所によると、毎週200人超の感染が報告され、昨年の2倍ほどのペースです。食べ物の取り扱いには十分にご注意を。建物が閉鎖的で湿気がこもりやすい豊洲の新市場では大量のカビが発生していることが判明しました。きびしい残暑を漂わせつつ、戒めとともに過行く夏。美しさのなかに名残りやはかなさも感じられる花火は、人びとの心を洗い癒し、周りを慈しむ気持ちをかもし出すといいます。災害や困難にもくじけず、心を通わせ、実りの秋を迎えたい。」(28日付けしんぶん赤旗「潮流」より)大曲市が知らない間に大仙市となっていましたが、花火大会は「大曲・花火大会」のままで良かったのではないかと思います。そういえば、今年も「生(なま)花火」を見ることもなく夏が終わろうとしています。さて、先日、韓国在住のお客が来られて、日本に住む娘さんが通訳して話しました。こんな僻地でも、国際的になってきたと思うと、すごいカルチャーショックを受けました。ここ高島市では、スナックにカラオケが付きもので、「歌いたいな!」と思う時は月に一度の割合で通っています。残念ながら、歌は上達しませんが、日頃のストレス発散には一番かもしれません。(写真は、この日利用した「越前露天風呂・日本海」の玄関と、楽しそうに海水浴を楽しむ子どもたちです)

夏休みも終わりですね。
2017/08/25

「子どもたちの机といすのあまりの小ささに驚きました。この夏、香川県小豆島の岬の分教場を訪ねた時のことです。壺井栄の『二十四の瞳』の舞台となった木造校舎が、大切に保存されています。若い新任の大石先生と12人の小学生1年生。昭和の初め、貧困と戦争に翻弄(ほんろう)される彼らを描いた小説は、何度も映像化されてきました。今年は小豆島出身の作者・壺井栄の没後50年でもあります。壺井栄の両親は苦しい生活の中、血縁のない2人も含め12人の子を育てました。実はこの家族が『二十四の瞳』の原型です。栄は「一つの家に育った十二人の子どもの話」が「一つの村に生まれ育った十二人の子供のの物語になった」と書いています。出征する教え子に大石先生は「名誉の戦死など、しなさんな」と。作者の反戦と平和の願いが凝縮されたセリフです。何よりも子どもの幸せを願う大石先生の姿に、子どもに寄り添う教師の理想像も込められています。来場者の感想ノートを見ると、全国から現役教師や教師志望者が大勢訪れていました。別の教室には、現役・OBの教師がびっしり書き込んだ大きなメッセージボードもあります。「子どものキラキラした瞳がいつまでも見られますように、皆で頑張りましょう」(山形の教師)最近は映画の舞台やロケ地を回ることを「聖地巡礼」といいます。岬の分教場は映画だけではない、日本の教育の聖地なのでした。子どもとともにきょうも頑張っている全国の「大石先生」が目に浮かびます。」(24日付けしんぶん赤旗「潮流」より)小豆島と言えば、先に書きましたが、ラグビーの「夏の合宿」の辛い経験しかありません。その後、数回訪れましたが残念ながら「岬の分教場」にはまだ行けていません。映画は何度も見ましたが、あまりに悲し過ぎて直視出来ませんでした。さて、昨日24日(木)は、お休みを頂き敦賀市方面に出かけて来ました。いつもの「鞠山海つり公園」は、行く夏を惜しむように、子ども連れで大賑わいでした。釣れていたのは、小アジとサンバソウ(石鯛の子ども)でしたが、子どもたちは何でも良かったようで、釣れる度に歓声を上げていました。(写真は、鞠山海つり公園の景色と、この日の釣果がバケツに入っていました)

高校野球も終盤ですね。
2017/08/21

「武田砂鉄」の「いかがなものか?」「高校野球シーズンにあちこちで量産される美談が苦手だ。いや、「苦手です」という意見表明だけではいけない。「手首骨折で」朝、ワイドショーを見ていたら、左手首を骨折しているにもかかわらず強行出場し、「主将・4番サード」という重責を背負いながらホームランを打った話が「イイ話」として伝えられていた。そんなの絶対にイイ話ではない。スタジオには元競泳選手のコメンテーターもいたが、監督や彼の判断を尊重していた。「高校野球」という字面を見た途端、「パブロフの犬」状態で感動モードのスイッチを入れる報道があまりにも多い。冷静になろう。彼は、左手が折れているのだ。5月の地方大会で」死球を受けてから、ほとんど練習もできない状態にあった。この試合でも、フルスイングで空振りした場面では、顔を顰(しか)めて痛みをこらえていた。もし、万が一、いや、実際の数値で言えば「百が一」くらいの可能性で、手首にボールが当たったり、捕球時に手首を捻(ひね)るなどの損傷が加わったりすれば、彼の選手生命はもとより、日常生活に支障をきたす可能性だってあるわけだ。「最後の夏か」選手に罪はない。高校野球用語で言えば「最後の夏」を迎えているわけで、何が何でも打席に立ちたいはず。だからこそ、周囲の大人が、彼を休まさせなければいけない。この先の野球人生を考えれば「最後の夏」ではない、と当たり前に教えてあげるべきだ。この「骨折ホームラン」を伝える朝日新聞デジタルの記事タイトルは、「手首を骨折しても本塁打 前橋育英、信頼に応えた4番」。記事は「監督が『勇気がる。昔のガキ大将みたい』とほれ込む主将。次も『そこ』にいるだけでいい」と結ばれる。記者も監督も、浅はかな精神論を垂れ流すことへの躊躇(ためら)いがない。高校野球とは無理するものだ、と決めつけを疑わない。すっかり麻痺(まひ)している。今回初出場した山口県・下関国際高校の監督インタビューも話題になった。「僕ね『文武両道』って言葉が大嫌いなんですよね。あり得ない」(日刊ゲンダイ)と答え、遅い日23時まで練習、選手の携帯は入部する時に解約、買い食いもダメ、炭酸飲料もダメ・・・等々のスパルタすぎる持論を述べ連ねた。この手の話が出ると「賛否両論巻き起こった」などとヌルい記事で伝えられるのだが、こんなもん「否」しかありえない。教師が、「文武両道」はあり得ない、と言うことこそあり得ない。いつまでこの手の麻痺に酔いしれるのか。(ライター)」(21日付けしんぶん赤旗「テレビ・ラジオ」欄より)私がラグビーの夏合宿に参加し、香川県・小豆島で行われた時に、炎天下の気温40℃はある中で「水」を飲むことが禁止されていました。仕方がなく顔を洗うふりをして、水道水を飲みましたが、死亡者が出なかったのが不思議なくたいです。この高校野球の監督も、強ければ何をやっても良いような勘違いがあります。野球の強豪校は、全国から野球に関して優秀は生徒を集め、甲子園に出て来ますが、少し白けた気持ちで見ています。名もない公立校が、限られた条件を乗り越えて出てきた時は、どこの県であっても応援するようにしています。さて、夏の暑さも一服して、セミの鳴き声も「つくつくほうし」に変わりました。少しづつですが、秋の気配が感じられる安曇川になりつつあります。(写真は、風呂場の窓に止まったモスラを思い浮かべる大きな蛾と、久しぶりに訪れた四津川地区・三和漁港ですが、人気がなく静かでした)

クツワムシが騒がしく鳴きます。
2017/08/18

「お盆休みのUターンラッシュもピークを過ぎ、日常が戻ってきます。楽しい思い出にふけながら、宿題に焦り始める子どもたち。夏休みはこれからという人もいますが、世間にはすでに秋の気配が漂います。東京都心は8月に入ってから40年ぶりの長雨に見舞われています。東日本の太平洋側を中心とする今年の冷夏。例年はにぎわう海やプールは閑散とし、レジャー施設や避暑地、夏の商品も打撃を受けています。作物への影響も大きい。すでに雨や日照不足でキュウリやナス、トマトの入荷量が減り、夏野菜の価格に影響が出ています。秋の収穫を前に懸念する農家の声も聞こえます。思い道りにならない天候に一喜一憂する私たちの生活です。今から200〜250年ほど前、冷夏がくり返し日本を襲いました。浅間山の大噴火、天明の大飢饉(ききん)や打ちこわしがあった時代。冷害による飢餓や疫病で当時の人口の4%強、110万人あまりも激減したとされています。18世紀半ばから19世紀初頭にかけた気候の寒冷化は、世界的にも人びとの暮らしやその後の歴史まで影響を及ぼしたといいます。たとえばフランス革命は不作続きとパンの値上げが農民・市民を決起させる導因になったと(桜井邦明著『夏が来なかった時代』)。天候の移り変わりとともに、みずからも変化させてきた人類の歩み。自然の力を畏怖しながらも、恩恵を受けて命をつないできました。人間社会が地球温暖化をもたらしているいま、その思いはいっそう募ります。」(18日付けしんぶん赤旗「潮流」より)関西では、「冷夏」を感じられないのでピンと来ませんが、関東では最高気温が25℃しかないと聞くとかなり深刻な問題です。夏は暑くならないと、経済が上手く回らいのがニュースから伝わって来ます。さて、夜に近所を散歩すると、クツワムシの鳴き声が聞こえて来ますが、風流と言うのではなく、ただ騒がしいだけです。それも年々勢力を広げていて、コオロギなどの鳴き声が聞こえなくなりました。(写真は、久しぶりに立ち寄った竜王町にある「蒲生野の湯」と、ブドウのシーズンを迎え大混雑していた長浜市の「南浜ブドウ園」です)

ミニ同窓会は楽しかった!
2017/08/15

「外壁の生々しい銃弾痕、焼夷(しょうい)弾で焼かれた柿の木、地下壕(ごう)や火薬製造所の跡地。知り合いの写真家、増田康雄さんが撮りためた「多摩の戦争遺跡」が本にまとめられました。軍事上の施設が多くあった地域。増田さんは戦争の悲劇を後世に伝える「生きた文化財」として遺跡を記録してきました。今も各地に残る戦争の爪痕。それは、あの戦争とは何だったのかを静かに問いかけています。1945年8月15日。まだ10代の少年は「玉音放送」を焼け跡のラジオで聞きました。「東条のバカヤロー」と叫びながら。幹部将校を養成するために設けられた東京陸軍幼年学校の”最後の生徒”だった作家の西村京太郎さんです。敗戦の年の4月に入学した西村さんは、半分は国が決めたことを信じ、あとの半分で戦争と自分のことを考えていました。政府も軍も「本土決戦」と騒いでいるから当分戦争は続くだろう、兵士になって戦場に行くのだからそれまでに将校になっていようと(『十五歳の戦争』)。一般市民を「地方人」と呼ぶ強烈なエリート意識の中で、盾となって天皇を守れとたたき込まれた戦時下の少年。死を生の上に置くことが普通になっていた当時を顧みながら、西村さんはいま、日本は不戦を貫け、と訴えます。敗戦から72年。私たちは、戦後の平和の歩みから大きく外れ、戦前回帰を指向する政治に直面しています。人間を狂気にかりたてていく戦争は二度とくり返さない。あのときの誓いは人びとの胸に生き続けているはずです。」(15日付けしんぶん赤旗「潮流」より)さて、13日〜14日までお盆休みを頂き、父親の三回忌も無事に済みました。14日は「墓参り」と「ミニ同窓会」の参加のため大阪まで出かけて来ました。時間があったので、ダメもとで甲子園まで足を運びましたが、想像を絶する長蛇の列で入場を諦めました。甲子園まで来て、入場が出来なかったのは初めての経験で、「高校野球フィーバー」が異常なほど高まっているようです。夕方の5時からJR鴻池新田駅前の「ミニ同窓会」が開かれる会場に着きました。今回は、総勢14名の参加で、賑やかに昔話に花が咲き、気が付けば午後10時になり、私のタイムリミットが迫っていて、後ろ髪を引かれる思いで会場を後にしました。日付けが変わった午前1時に無事に安曇川に帰って来ました。これで、私の短いお盆休みが終わり、また日常の生活が戻って来ました。(写真は、大混雑していた甲子園球場の様子です)

平和のための美術展・戦争展A。
2017/08/11

スペシャルドラマ「返還交渉人」NHKプレ 12日午後9時〜沖縄を取り戻す外交官の信念「こんな気概のある外交官がいたのかと驚きます。千葉一夫(井浦新)は実在の外交官。1960年代から沖縄返還交渉を指揮、「返してもらうではなく取り戻す」を信念にとりくみます。作・西岡琢也、演出・柳川強。交渉時、沖縄はベトナム戦争の米軍の出撃拠点で核兵器も存在しました。沖縄をこれまで通り使いたい米国との交渉は厳しい。外務省は西條北米局長(佐野史郎)、課長の千葉を中心に「核抜き本土並み」返還を目指します。植田駐米大使(大杉漣)ら、安全保障のために米国の論理は当然とする主張や、密約必要説も根強い。千葉を鼓舞したのは屋良琉球行政主席(石橋蓮司)や沖縄の人々との交流と妻・惠子(戸田菜穂)の励ましでした。72年沖縄返還協定締結。戦前、通信士官だった千葉は凄惨(せいさん)な沖縄地上戦で米軍の無線を慚愧(ざんき)の思いで傍受していました。沖縄戦の死者と向き合うこと、外交官としての原点です。沖縄戦から現代まで、県民のたたかいも交えた沖縄の歩みの中に返還交渉を置いた構成が見事です。定年後夫婦で訪れた千葉が米軍基地の前で「取り戻さんとな」。示唆多いラストです。(荻野谷正博 ライター)」(11日付けしんぶん赤旗「試写室」より)なかなか面白そうなドラマですので、明日は是非見てみたいと思っています。さて、世間は「お盆休み」で、海外に出かける人や帰省客で空港や駅や高速道路は大混雑の様です。「何でこんな混雑時に出かけるのだろう?」といつも思うのですが、そうしないと、どこか不安な気持ちもあるようです。ところで、11日は祭日ですが、「何の日?」とお客に訊かれ、慌ててカレンダーを見ると「山の日」となっていましたが、まったく知りませんでした。他人ごとではありませんが、当店も13日〜14日まで、二日間お休みを頂きます。父親の三回忌と墓参りで終わりそうですが、唯一大阪で「ミニ同窓会」が開かれるので楽しみにしています。大変申し訳ないのですが、次回の店長日記は15日に延長させて頂きます。「みなさん、良い休日をお過ごし下さい」(写真は、右から書かれた滋賀県の地図と、戦争展で展示された遺品と、日の丸に書かれた寄せ書きです)

平和のための美術展・戦争展@。
2017/08/08

布は私の絵具「2011年3月の東日本大震災、それに伴う原発事故により、福島県南相馬市から避難して7年目になりました。この間、滋賀県の皆様にはたいへんお世話になり支えて頂きました。布絵は文字通り、布を切り取り、糊で画用紙に貼り付けて絵にしたものです。誰に教わった訳でもなく、ふる里に帰れない悲しみや怒り、望郷の念や幼い日々を思い出し、古着や裁ち屑で作りはじめました。そのうち、それらを見た方達から役立てて欲しいと布を送って頂くようになり、一気に色彩が豊かになりました。私にとって、布は絵具なのです。また、ある時、原発事故の被災者としてメッセージを入れてみたらどうか?とアドバイスを受け、簡単な文を入れたのが、ここに展示して頂いた布絵のはじまりです。私には私なりの方法しかありませんが、一人でも多くの方が原発を考える入り口に立って頂けたら、この上もない喜びです。 プロフィール 1950年福島県生まれ 福井原発訴訟(滋賀)原告」今年も、4(金)〜6日(日)まで、「安曇川町ふれあいセンター」に於いて、平和のための「美術展・戦争展」が開催され、立ち寄って来ました。サブタイトルは、「二度と戦争はごめん!核廃絶 恒久平和を希う高島から平和の声を!」と書かれていました。毎年の事ですが、なかなか力作が多く、芸術に縁のない私にとって、感嘆することばかりでした。さて、台風5号が、久しぶりに滋賀県に接近して、かなりの雨を降らせました。旧朽木村では、「避難勧告」も出て、大騒ぎになりましたが、幸い大きな被害もなく安心しました。朝になって、長浜市の映像が流され、姉川周辺で河川の氾濫があり、体育館に避難される住民が映し出されていて、まったく知らなかったので驚いています。(写真は、「青田惠子・布絵作品展」に展示された作品です)

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