積雪は30aとなりました。
2024/01/25
「わがまち ふるさと」「三重県鈴鹿市」「鈴鹿市は1942年末、軍事施設を造る目的で2町12村が合併して市になった、特異な歴史を持っています。戦後、その広大な軍事地跡にホンダなどの企業を誘致して発展し、現在人口20万人。F1レースの鈴鹿サーキットや、鈴鹿山脈などで名前が知られています。近鉄特急が停車する「白子」(しろこ)の街は、港を中心に江戸時代から栄えた歴史を持ち「伊勢型紙」で全国に名を知られていました。型紙は和服のの文様の元となるデザインを和紙に彫ったもので、全国に販路を広げ、100軒以上の「型屋」の下に大勢の職人が腕を競いました。戦後は型紙の需要も減りましたが、今も大相撲の呼び出しさんの衣装などに使われ、白子の伝統産業会館や伊勢型紙資料館では、作品の展示や職人さんの実演も見られます。白子の港には「大黒屋光太夫」出帆の地の記念碑があります。光太夫は1782年、江戸への貨物を運ぶ回船の船頭として白子港を出港、嵐に遭いロシア領に漂着。首都ベテルブルグでは女帝エカテリーナ2世に謁見(えっけん)し1792年帰国、江戸で将軍徳川家斉にロシアでの見聞を報告しました。その数奇な運命をたどった物語は、小説や映画にもなり、白子の隣町・若松には光太夫の記念館があります。(石田秀三市議)」(25日付しんぶん赤旗「地方・総合ノページ」より)鈴鹿市には何度か訪れたことがありますが、一番思い出に残っているのは会社の「テニス同好会」での合宿です。メンバーに鈴鹿サーキットに勤めている姉がいて、優先的に利用出来ました。「テニス同好会」とは名ばかりで、夕食後の宴会が楽しみで夜通し飲み明かしたことがあります。また、長男が幼稚園児の頃、車の運転を初めてなのに上手にしたので親が感心したことを思い出されます。さて、24日の朝から降り出した雪は、一日中降り続き25日の朝には30aの積雪になりました。久しぶりに雪かきをしましたが、車を掘り出す?のに1時間はかかりました。皆さんの合言葉は「こんなに降ると思わなかった」です。「写真は、25日の朝の近所の豪雪の?様子です」
火曜日から大雪の予報です。
2024/01/22
「電話で聞いた実家の能登町」
相模原市 船見 栄子(70歳)
「実家は石川県能登町です。15日に電話で聞いた話。神野公民館(山奥)には40人ほど避難。断水で衛生状態が悪く、お風呂に入れません。着替えは家から持ち出せるが、汚れたものは車に積んだまま。食事はおにぎり1個、みそ汁1杯です。自衛隊が各地区に1カ所お風呂を設置。能登町の党員の友達が行くと、寒い中2、3時間も待たされ、彼女が自衛隊員に「男風呂はガラガラですよ。男風呂を1時間だけ閉鎖して女風呂を2カ所にすれば、おばあちゃんたちが寒い中並ばなくてもよくなる」と提案。翌日大きなテントが張られ、中ははストーブで暖かくなっていて待ち時間過ごせたと。私は電話で知り合いに「行ってみるといいよ」と伝えました。能登町の珠洲市に近い避難所の党員の方。自宅が片付いた方々は自宅に戻ったり、金沢に避難したりして人数が減り、残ったのは1人暮らしのおばあちゃん方。党員はこのおばあちゃん方を放っておけないと、避難所に残ったそうです。」
「正月もバイトパートの苦労」
東京都 村田 健介(会社員 41歳)
「仕事始め日にパートさんたちに「のんびりできましたか?」とたずねると、意外な答え。「年末年始は短期アルバイトにいっていた」多くの会社務めの人にとっては、年末年始は羽を伸ばす期間である。だが、非正規であるパートさんたち、日給月給制の彼女たちにとって、お正月は収入が減る時期でもあるのだ。アルバイト募集の広告を見ても、確かに賃金は上がっている。だが「生活が豊かになった」という話はほとんど聞かない。それどころかお正月期間にも休めず、臨時アルバイトに出る状態だ。政府のいう「デフレ脱却」をむなしく感じた。」
(22日付しんぶん赤旗「読者の広場」より)
能登地震の影響は、日が経つにつれて深刻さが見えて来ました。これだけの被害が起きると復旧までどれくらいかかるのか、そもそも元に戻るのか、戻っても住民が住み続ける人がいるのかなど考えてしまいます。さて、明日の夜から明後日まで大雪の予報が出ています。今年は暖冬なので大したことはないと思っていますが、例年最も雪が降る時期なので覚悟は必要です。「写真は、3日に久しぶりに行った岐阜県・揖斐川町「藤橋の湯」です)
美浜再稼働に抗議。
2024/01/19
「運転開始から47年以上たつ老朽化した関西電力美浜原発3号機(福井県美浜町)が18日に再稼働を強行されました。「老朽原発うごかすな!実行委員会」の主催でデモ行進し、「美浜原発のの再稼働許さない」「老朽原発今すぐとめろ」と声を上げ、関電に申し入れを行いました。能登半島地震で北陸電力志賀原発(石川県志賀町)は外部電源の一部喪失や変圧器トラブル、一部で想定を超える揺れの観測などがあり、周辺の18カ所のモニタリングポストも故障しました。しかし関電は本震後も福井県内で原発4基を運転し続けており、今回さらに1基再稼働です。実行委員会は「志賀原発、(東京電力)柏崎刈羽原発の再稼働を食い止めていたことが原発過酷事故の再発を回避させたとも言える」として世論と運動の意義を強調し、関電の今回の再稼働を「住民の安全などを無視した暴挙だ」と厳しく批判しています。美浜3号機をめぐって、住民らは運転禁止仮処分申し立てを福井地裁に行っています。3月に決定が出ます。」(19日付しんぶん赤旗「社会」欄より)原発の電気が送られてきたのは、1970年の「万博」の開催中でした。その時、たまたま会場にいた私は、電光掲示板に表示された文字を見て驚いたことを覚えています。美浜町には何度も訪れていますが、年々過疎化が進み小中学校も無くなりました。もし原発が無かったら、観光や魚業で栄えていたかもしれません。さて、暖冬というわけではありませんが、まだ積雪は1a程度が2回あっただけで、本当に楽な冬になっています。「写真は、久しぶりに積もった?雪景色に感動しました」
志賀原発2`の集落。
2024/01/16
「北陸電力志賀原発からおよそ2`の距離にある石川県志賀町の福浦集落。日本最古の木造灯台が現存する港町です。震災で瓦屋根がはがれ落ちた家屋や支柱にヒビが入るなどの被害を受けました。断水で住民らは、生活用水を井戸水で賄うほか、飲料水は給水所へ取りに行くなど不便な生活が続いています。」「家の支柱や土台にヒビが入り、傾いたと語る開(ひらき)郁代さん(64)。揺れの恐怖から落ち着いてきたいま、原発への影響が気になり始めたといいます。原発事故で被害を受けることは「もうあきらめている」と語ります。一方、志賀原発で過酷事故が起きた場合の避難計画で避難先が半島北東部の能登町となっていることに「金沢市のほうが近いのに」と不安を募らせます。「より避難しにくい場所に行かなければならないことには不満もある。でも従うしかないのかなと思っている」地震の揺れで「家がつぶれる」と恐怖を感じたと話す新聞配達員の女性(51)。避難するのに精いっぱいで原発のことは考えられなかったと振り返ります。ただ、事故が起きた場合に使う道路が今回の震災で寸断されている状況に「不安だ」と語ります。能登半島地震は、原子力防災の問題を改めて浮き彫りにしました。北陸電力志賀原発の防災訓練の監視行動を続けている原発問題住民運動石川県連絡センター事務局長の児玉一八氏は、「今回の地震で避難は不可能だという私たちの指摘が実証されてしまった」と話します。」(16日付しんぶん赤旗「社会」欄より)もう、20年ほどまえになりますが、私も志賀原発を見て来ました。原発の立地地はどこも同じですが、この志賀町ものどかな海が広がる静かな所です。こんな所になにも原発を作らなくてもと思いましたが、それは若狭湾にある原発立地も感じる事です。さて、気が付いたら1月も半分が終わり、もはや普通の生活になりつつあります。今朝は、積雪1a?という雪でしたが、すぐに解けてしまいそうです。「写真は、前進座の舞台挨拶と京都劇場の入り口の風景です」
今晩から雪の予報です。
2024/01/13
「「能登はやさしや土までも」。古くから伝わる言葉は、人はもとより風土までも素朴でやさしい土地柄を表しています。この地域の伝統工芸、輪島塗には欠かせないものがあります。下地塗の際に漆と混ぜて使う「地(じ)の粉(こ)」です。地層からほりだした珪藻土(けいそうど)をよく練り、天日干しの後におがくずを混ぜ蒸し焼きにしたもの。それが堅牢(けんろう)優美といわれる特長を生み出してきました。輪島塗にはいくつもの工程があり、たくさんの職人がかかわっています。人の手がつながり、支えあって発展してきた地場産業。しかし今回の地震で多くが被害にあい、平安時代から続くとされる朝市も火事で焼失。地元からは「輪島の文化が消えてしまった」と嘆く声も聞こえます。被災地では仮説住宅づくりが始まりましたが、主な産業や観光業が大打撃をうけた中での生業(なりわい)と街の復興の道すじは・・・。現地に入った共産党の小池書記局長は「迅速で長期的な直接支援が必要」と訴えます。もともと能登地域は過疎と高齢化が切実な問題となっていました。そのうえ平成の大合併で行政の職員が減らされ、学校など公共機関の統廃合が進められてきました。これまで冷たく地方を切り捨ててきた自民党政治が、被害をいっそう深刻にしています。きょうから大学入学の共通テストが実施されます。被災地からも受験生が教員や保護者に見送られ、試験会場に向かっていました。困難と不安の中でも、夢と希望をもちながら。将来への思いを生かすのは政治の責任です。」(13日付しんぶん赤旗「潮流」より)現地では仮説住宅の建設が始まりましたが、土地がないとかで津波危険区域になるとか。これでは移転しても安心できませんので、高台に造成してでも場所の選択をしてほしいものです。さて、滋賀県北部に久しぶりに「雪マーク」が出て、今晩から雪になる予報です。まあ、たしたことはないと思うのですが、万が一に備え準備は万全です。「写真は、6日に京都劇場で行われた「前進座」の公演での舞台挨拶です」
今年の初雪が降りました。
2024/01/10
「「初動が遅い」。能登半島地震への岸田政権の対応をめぐり、こんな声が上がっています。2016年の熊本地震では、発生から5日で自衛隊は2万2千人規模になりましたが、今回は9日目で6300人。避難所では食事がパン1個という状況が続き、多くの安否不明者も残されています。「政府は何をやっているのか」という批判も理解できます。今回の震災対応を困難にしているのは「陸の孤島」といわれる能登半島の地理的要因です。一本の道がふさがれば、どこにも行けない。石川県によれば、8日時点で能登地方の24地区3300人が道路の寸断で孤立状態にあるといいます。発生当初は、道路の寸断はさらに広範囲におよび、元日で休暇中だった自治体職員の多くが出勤できなくなりました。こうした要因が、捜索や被災者支援に困難をもたらしたと思われます。自衛隊の規模をめぐっては、熊本地震と単純比較はできません。それでも、もっとできるのでは。例えば、陸路が困難なら空路=ヘリをもっと活用できないのか。そんななか、防衛省は7日、千葉県の習志野演習場で、降下訓練を予定通り実施し、多くのヘリを戦闘訓練に投入しました。救援物資を積めるであろうヘリから降りてきたのは、銃を持った自衛隊員・・・。違和感を覚えたのは筆者だけでしょうか。「初動が遅い」という批判の根底には、岸田政権に対する国民の信頼の喪失があります。命を助けること、助かった命を守りぬくことは政府の責任です。」(10日付しんぶん赤旗「潮流」より)毎日テレビを見るたびに、地震の被害の深刻さが伝わって来ます。これから寒くなる能登半島ですが、まず自身の健康に留意してほしいものです。さて、7日の夜から降った雪は、8日の朝には5aの積雪になっていました。まず玄関前と車の周りの除雪?を行いましたが、数分で終わりました。これからが冬本番ですが、暖冬といわれているので雪は少ない方がありがたいです。「写真は、8日の朝に積もった近所の雪景色です」
被害が大きい能登半島地震。
2024/01/07
「竜は水をつかさどる神です。このため竜の伝説は湖や池にまつわるものが多い。自らの美しさと若さを永久に保ちたいと願って、竜に化身した田沢湖の辰子姫。竜になった八郎太郎がつくった八郎潟。壮大なスケールの伝説は作家の創作欲も刺激してきました。松谷みよ子の『龍の子太郎』で、太郎は母竜の背に乗って湖を干拓、広い土地を生み出します。元は長野県の伝説。「大地を生むことは、水を統(す)べる力を持つ竜だからこそ、でき得た」と、作者は24年前の辰年に本紙に寄稿しています。泉鏡花の戯曲「夜叉が池」も有名です。たびたび大水をおこした竜神が、山中の池に封じ込められていました。竜との約束で、山では昼夜に三度、一日も欠かさずに鐘をついていました。しかし、権勢を笠(かさ)に着た代議士のせいで鐘はつかれず、村は大水に飲み込まれてしまいます。夜叉ヶ池は福井県と岐阜県の県境近くにあり、いまも神秘的な水をたたえています。長野県の黒姫伝説では、怒った竜が四十八池の水を落として大洪水を起こしました。竜には人間の及ばない自然現象への恐怖と畏怖が仮託されています。うまく統御できれば豊かな実りをもたらします。一方、ひとたび人間が約束を破れば、途方もない災害が襲ってきます。巨大台風、集中豪雨などの異常気象は、人間の活動による温暖化が原因と言われます。人間のおごりが竜の怒りを呼んでいるのです。人間と自然の調和を取り戻し、竜を鎮めることができるかどうか。正念場です。」(7日付しんぶん赤旗「潮流」より)「夜叉が池」への道路標識は、福井県の今庄町にもありますし、岐阜県の揖斐川町にもあります。「夜叉が池」と言う名前は一度聞いたら忘れられない名前で、どこから来ているのか知りませんでしたが、今回の記事で泉鏡花の戯曲だと初めて知りました。さて、能登半島地震は、日が経つにつれて被害が大きくなり、一日も早い復旧が望まれます。特に水の復旧は待ったなしで、生活に欠かせないものだと思っています。「写真は、2日に行った越前市の「しきぶ温泉・湯楽里」の館内の景色です」
明けましておめでとうございます。
2024/01/04
「「魔の11分」。そんな用語がこの業界にはあるといいます。世界の航空機事故のおよそ7割が離陸時の3分と着陸時の8分に集中していることから、そう呼ばれています。2日、羽田空港で起きた日本航空機と海上保安庁の航空機の衝突。着陸の日航機はほぼ満席でしたが、炎上する中を乗客全員が脱出を果たしました。まさに危機一髪でした。一方、滑走路上にいた海保機の乗員6人のうち5人が亡くなり、1人は重傷を負っています。この機は前日に発生した能登半島地震の救援物資を運ぶため、新潟に向かおうとしていました。そのことが、痛ましさをいっそう募らせます。まだ原因は不明ですが、昨年も羽田空港では誘導路で航空機同士が接触し、翼の一部を損傷しています。国際線の導入が進んだことで過密状態にあるといわれる空港。4本ある滑走路は井桁状に組まれ同時着陸も可能で、管制業務はとても複雑だと専門家は指摘しています。今回の経過を解明するとともに、こうした背景にも目を向けることが事故の再発防止には必要ではないのか。ありえないことが起きてしまった現実とむきあい、安全第一を軸にすえた検証が求められます。それにしても、なんという年明けか。能登の地震では今も余震が続き、死者は増え、多くが助けを待っています。空の便は欠航が相次ぎUターンの足に深刻な影響が出ています。いつ、どこで、何が起きるかー。被災者や事故にあった人びとに心をよせあう、緊迫感漂う新年です。」(4日付しんぶん赤旗「潮流」より) 1日の地震は、高島市で震度4ありましたが想像以上に揺れたので怖かったです。震源地が能登半島と知り、何年か前の震災後、輪島市を訪ねてその被害の大きさを知りました。被害が大きくならなければ良いなと思っていたら、羽田空港での事故が写り、これまた驚きました。それを見ていた母親が、「なんか正月そうそう荒れる年やな」とつぶやいていました。「写真は、今年も安曇川町・川島地区に訪れた「コハクチョウ」の群れですが、なかなか愛くるしいの是非見に来てください」
みなさん、良い年をお迎え下さい。
2023/12/31
「「これほどひどい、人道危機はみたことがない」。国際機関で長く支援活動に携わる人たちが、口をそろえるそうです。それほど、ガザの状況は悪化の一途をたどっています。日々積み重なっていく犠牲者の数。人口の9割超が避難民となり、南部では避難所も家も道路も人であふれ安全な場所はひとつもない。家族6人に1・5gの水と二つの缶詰。それが1日分のすべてだと。ネット番組「とことん共産党」で、国連パレスチナ難民救済事業機関の保健局長、清田明宏さんが伝えていました。見境のないイスラエル軍の攻撃に脅かされいる命の危険を何とかしたい。悲痛な思いがひしひしと。2023年が暮れてゆきます。心痛み、暗く重たい気持ちを引きずったまま。ロシアによる侵略がやまないウクライナもまた。なんという人間の愚かしさ。どこに光明を見だせばいいのか。人びとはさまよっています。大国が作りだす対立のなかで世界の流れは鮮明です。国連総会はガザ即時停戦を求める決議を、加盟国の8割にあたる153カ国の賛成で採択。戦争やめよの意思をはっきりと示しました。それに呼応するように、若者をはじめ平和を訴える声が各地であがっています。国内では政権与党の国会議員の強制捜査や聴取が続いています。迎える年は辰(たつ)。古来、瑞祥(ずいしょう)の象徴とされてきた龍は特別な力を持つとあがめられてきました。しかし人類を進歩させてきたのは、いつの時代でも、より良い社会をめざすほとばしるような情熱です。」(31日付しんぶん赤旗「潮流」より)昨日、30日は大阪・大東市まで先祖の墓参りに行って来ました。現地に着くと、孫が一生懸命墓掃除をしている姿を見て、嫁さんが「おじいちゃんが喜んでいるわ」と言っていました。その後、近所にある(新田地区)「くら寿司」でお昼を食べ、お別れしました。帰り道に「阪神百貨店・タイガースショップ」に立ち寄り「カレンダー」を買うのが習わしですが、「完売」で残っていませんでした。大坂駅からの帰路、京都駅で途中下車し、夫婦だけの忘年会をし、時間が早かったので「カラオケ」で歌って帰りました。そんなわけで、今日は店の大掃除に来ましたが、今年最後の「店長日記」を書いています。みなさんにとって2023年はどんなとしでしたでしょうか?私は、人生初の2カ月の入院を経験して、苦しい事の多い一年でした。来る2024年は私の干支である「辰年」でありますから、期待はしております。みなさん、どうぞ良い年をお迎えください。「写真は、夜空に浮かぶ京都タワーと駅前の風景です」
クリスマスも過ぎて後は正月。
2023/12/27
「「声援にはなるんですが、いま選手が足りません」「国民の命綱の綱引き。自民党百数十万人、共産党二十数万人。自民党には公明党が付きます。維新もいます」大阪府豊中市で開かれた「未来をひらくつどい」で清水ただし衆院近畿比例・大阪4区候補が語りかけました。「綱引きに参加してほしい」ー他の弁士も訴えました。「わかりやすかった」「市議会での共産党の奮闘がよくわかった」と好評で、その後の懇談会で3人が入党。党員数で4年前の弟28回党大会を回復した支部、あと1人に迫った支部などがあらたに生まれました。「つどい」には200人が参加。地区委員会は1カ月前から準備し、懇談場所を会場の後方に確保するなど工夫もしました。入党した人はいずれも長年の共産党支持者です。親族に「赤旗」日曜版を読んでもらう約束してもらって「つどい」に参加した人や、かつて日刊紙を配達していた人たちです。「つどい」終了後、みずから入党懇談会に残ってくれた人もいます。東前剛党豊中地区委員長は「まだまだ入党対象者が広くいることを感じました。支部主催のミニ『集い』は年末ぎりぎりまで計画されています。視野を広げた入党の働きかけをすすめたい」と語ります。」(27日付けしんぶん赤旗「さあ党大会」より)私が日本共産党に入党したのは、大阪から引っ越して来て間もない1984年でした。帰宅して嫁さんに話すと「あんた、何考えているの!商売どうするの?」「明日にでも、断ってきてや!」と言われました。その本人が市議として働き、他の人に新聞を勧めたり、入党を勧めたりしています。その分、私はあまり関わらない生活をしています。さて、我が家では特別なこともなくクリスマスも過ぎ、残りは正月を待つだけですが、その前に大阪・大東市に墓参りに行く予定があります。「写真は、鳥取砂丘と言えば「砂丘会館」で、私もツアー旅行でお昼を食べました」
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