長崎に行って来ましたD。
2025/09/06
「戦前、絶対的天皇制下の日本。女性に選挙権がなかった時代に、性差別に沈黙することなく生き抜いた女性たち。日本共産党の党員になり戦争をしない平和な社会を求め、貧困をなくしたいと治安維持法による迫害や投獄のも屈せずに。先月16日放送のTBS報道特集が伝えたのは、そんな女性党員たちの姿とこれを敵視する特高警察(特別高等警察)による容赦のない拷問でした。非人間的な残酷な所業の数々・・・。戦前から労働組合で活動してきた小松ときさん。息子の伸哉さんの証言によれば「戦争に反対する立場を持たないと幸せは本当につかめない」との思いがあったと。後に特高に拘束され、殴られたり頭髪を引きずるなどの暴行を受けました。開業医の手伝いをする中で貧しいひとが医療を受けられない現実を知った山田寿子(としこ)さん。1930年、神奈川県で特高に「検挙」されました。戦後に筆圧強めに書いた手記には、「冷酷で女にとって屈辱的な拷問」を「大の男5〜6人」から受けたと。性的拷問が詳細に書かれていました。治安維持法制定から100年。困難な時代の女性党員を、入党の動機にも触れつつ取りあげた番組でした。歴史逆行の潮流が台頭する今日、”法の暴走”という歴史の真実を伝える貴重な労作です。労働条件や福祉・医療をよくしたい、と現代と変わらない思いで、自分が暮らし働いている場所から、声を上げ圧政に立ち向かっていった彼女たち。その果敢な姿に勇気をもらい胸が熱くなります。」
(5日付けしんぶん赤旗「潮流」より)
戦前にも勇気のある女性がいたことに驚きですが、現在なら、むしろ当たり前のことなのかもしれませんね。さて、平和記念館から路面電車に乗り、大浦天主堂とグラバー邸を見るため移動しました。停車場から徒歩で坂道を歩くのですが、なかなか上まで上がれず、ここで昼食をとることにし、名物の「長崎チャンポン」を頂きました。「写真は、昼食の長崎チャンポンと、大浦天主堂ですが息も絶え絶えででした」
長崎に行って来ましたC。
2025/09/03
「トマトは収穫減、レタスは茎が伸び葉が丸まらない、ブドウは梅干し状態に・・・。猛暑・日照りでこんなニュースが連日のように。国連広報センターは、気候変動と異常気象の増加は「世界的な飢饉(ききん)と栄養不足の増加の理由の一つ」指摘します。気温上昇は嵐や干ばつを招き、漁業、牧畜の生産力が低下に。雨期に干ばつをくり返したことが文明崩壊の一因だったー。中米・ユカタン半島を中心に発達したマヤ文明の崩壊について、米科学雑誌の研究結果を本紙が報じていました。9世紀後半からの150年間に、雨期に3年続く干ばつが8回、13年続く干ばつが1回あった、と。気候変動による深刻な事態は日本の歴史にも。古代史に登場する女王卑弥呼(ひみこ)の邪馬台国(やまたいこく)は紀元2世紀に起きた「倭国大乱(わこくたいらん)」と呼ばれる争乱の末に誕生しました。その原因は気候変動による食糧危機だった、と名古屋大学教授の中塚武さんら研究グループが。この時期に干ばつや洪水など異常気象が頻発し稲作が打撃をうけ、食糧不足が原因で争いに。樹木の主成分を分析する最新の年代測定法に基ずく古気候データと史資料などを対比して、新しい発見が次々と生み出されています。対策をとらなければ東京の最高気温は43・3度に、という環境省の「2100年 未来の天気予報」はいよいよ現実味を帯びています。生存の危機を招かないために、気候危機打開への取り組みは待ったなし。中塚教授はいいます。「気候変動は、確かに歴史を左右していた。」
(3日付けしんぶん赤旗「潮流」より)
今年の夏の暑さは異常ですが、ちょっと前まで35℃で驚いていたのが、40℃でも驚かなくなりました。このままでは、45℃も決して夢物語ではありませんね。さて、平和公園に行った後は、原爆記念館に立ち寄りました。この時だからか知れませんが、圧倒的に外国人が多く、関心の高さが分かりました。「写真は、館内に飾られた「千羽鶴」と、ノーベル平和賞の受賞の目録と、長崎に投下された原爆のレプリカです」
長崎に行って来ましたB。
2025/08/31
「まず病院をミサイルで攻撃する。直後に同じ場所を攻撃して救援活動や報道にあたる人々を攻撃する。イスラエルは、パレスチナ・ガザでこの「ダブルタップ攻撃」をくり返してきました。ダブルタップとは、タッチパネルを2回トントンと指でたたく動作を指します。精密誘導兵器を使い時間差で攻撃する卑劣な犯行。それを、トントンの動作になぞらえるのは強い抵抗を覚えますが、欧米ではそう呼ばれています。25日午前10時ごろ、イスラエルはガザ南部のナセル病院を攻撃。およそ10分後に、救援活動が行われていた非常階段付近を再度攻撃し、合わせて20人以上を殺害しました。そのなかにはジャーナリスト5人も含まれていました。病院攻撃も、救援・医療要員への攻撃も、ジャーナリストへの攻撃も、治療を受けている民間人への攻撃も、それぞれが重大な戦争犯罪です。病院や医療従事者への度重なる攻撃は、負傷者や重病患者を助けられない状況を生んでいます。すべてはできるだけ多くのパレスチナ人を殺害しようとするイスラエルが意図的に行ってきたことです。イスラエルのメディアでは極右派の「ガザに罪のない人間などいない」との主張が垂れ流されているといいます。これまでイスラエルがこうした攻撃を日常的、意図的に続けてきたことは同国の独立メディアも明らかにしています。イスラエルのネタニヤフ首相は「悲劇的な事故」だと弁明。あまりにもしらじらしさとジェノサイドの非人道性に、怒りで身が奮えます。」
(31日付けしんぶん赤旗「潮流」より)
今年の暑さの原因は「地球温暖化」が言われていますが、人間同士が争っている場合ではないのではないでしょうか?さて、長かった8月も今日で終わりですが、昨日は私の誕生日で、73歳になりました。小さなケーキにロウソクを立て、写真も撮りましたが「遺影」にするのかと嫁さんに言われました。「写真は、原爆記念公園に設置された外国からの寄贈品です」
長崎に行って来ましたA。
2025/08/28
「わがまち ふるさと」「青森県黒石市」「青森県黒石市は、県の中央に位置しており、県内で4番目の市として誕生しました。国道102号線と県土を横断する国道394号線、東北自動車道黒石インターチェンジを擁し、至近距離には青森空港があるなど、青森県の交通の要衛となっています。「リンゴと米と温泉の田園観光都市」として親しまれ、「中町のこみせ」が重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。近年は、特に城下町の風情を残した町並みや」建造物が高く評価されています。中野神社のもみじは、弘前藩弟9代藩主・津軽寧親(やすちか)公が、1802年に温湯(ぬるゆ)村に1泊した際に、中野山のもみじや不動の滝に魅せられ、京都からカエデ苗木約100種を取り寄せて中野不動尊に奉納。翌年3本のもみじの苗木を移植しました。神社の境内には、このもみじ3本と大杉B本が、1983年にに市の天然記念物に指定され保護されているほか、樹齢200年を超えるモミの木が県の天然記念物に指定されています。中野もみじ山は紅葉スポットとして人気を博し、壮大なライトアップのもみじ山はきっと心に残る思い出の場所になるでしょう。(工藤禎子市議)」(28日付けしんぶん赤旗「地域発」より)
関西地方から見ると、東北は北海道以上に遠い場所でなかなか行く機会がありません。私も、いまだに秋田、岩手、青森は行ったことがありません。機会があれば是非行きたい場所の一つです。さて、22日(金)は、ホテルを出ると長崎駅にまで路面電車で移動しました。「路面電車」の1日乗車券がたったの600円でしたので、嬉しい限りです。長崎駅で朝食を済ますと、まず平和記念公園まで出向きました。電車内は外国人で一杯で、いまさらながら国際都市になりつつあるのだなと感じました。弱った足腰でどうにか公園までたどり着きましたが、あの銅像が私たちを迎えてくれました。「写真は、公園の入り口で撮ったた私と、水が涼しげな噴水と、リュニーアルされた?銅像です」
長崎に行って来ました@。
2025/08/25
「おいしくて安全で栄養価が高い。子どもの成長や発達の権利を保障する学校給食の無償化に向けて、取り組みがよりいっそう大切な局面を迎えています。6月の「骨太方針」には「(来年度予算の)編成過程において成案を得て、実現する」と無償化が明記されました。その後の会見で、阿部俊子文科相も「意義あるものとなるように取り組んでまいりたい」と記者の質問に答えています。来年度予算に関する文科省の概算要求は、今月末に発表の予定です。無償化にどこまで踏み込むのかが注目されますが、実施を後押しする運動は引き続き必要となるでしょう。しかし、保護者の教育費負担の軽減が無償化のゴールではありません。無償化されても給食の質が下がったり、施設が充実されたかったり、給食に関わる人たちの労働環境が整わなかったりしたら、子どもたちに豊かな給食が保障されないからです。近年の猛暑で、給食づくりの現場もかなり過酷になっていますが、いまだに冷房設備がないところがあります。昨年の文科省調査では、自校給食の調理室や配膳室のなどの冷房設置率は平均8割程度。中には4=5割台という都道府県も。ここには、スポットクーラーのような部分的な冷房も含まれます。一方で、休憩室の冷房設置率は9割強と高めでしたが、そもそも休憩室そのものがないところも。6月から職場の熱中症対策が義務化され、休憩場所の確保もその一つとなりました。学校も例外ではなく対策が急がれます。」
(25日付けしんぶん赤旗「潮流」より)
21日(木)から24日(日)まで、嫁さんの実家で法事があるので出かけて来ました。21日(木)の午後9時前に長崎市に着きました。この日はホテルに直行し、夕食のために近所の居酒屋「魚定一」に行きました。色々と注文しましたが、中でも「クジラの刺し身」が絶品でした。「写真は、長崎の居酒屋で注文した「クジラの刺し身」ですが絶品でした」
お盆休みも終りましたね。
2025/08/19
「小学生の頃の愛読書は、『女工哀史』でした!作家の三浦しをんさんは、友人からこう言われて度肝を抜かれたそうです。自身も読んでみて「おもしろい。たしかにこれはおもしろい!」と書いています。「私がなによりも胸を打たれたのは、著者の細井和喜蔵(わきぞう)の徹底した男女平等等の視線だ・・・。この本に書かれた社会のひずみと女性を取り巻く問題点は、もちろん改善されてはいるが、いまも完全な解決には至っていないと言っていいはずだ」(『本屋さんで待ち合わせ』)。『女工哀史』は、紡績工場の過酷な実隊を告発した100年前のルポルタージュです。人身売買同然の女工集め、監獄のような寮生活、一般女性の3倍もの死亡率といった多数の実例を挙げて描いています。細井和喜蔵は機械修理工でした。工場の女性たちの荒れた手を見て「(人々は)衣服を纏(まと)うために幾万の若い女性が犠牲になって行くかを果(はた)して考えたことがあるだろうか」と胸を痛めます。仕事をやめ、病気を押して同署を書き上げました。和喜蔵は『女工哀史』刊行の1カ月後に28歳の若さで病死。8月18日は没後100年にあたります。執筆を助けた高井としをは、戦後、地域で労働組合を結成し、輪喜蔵没後50年にはこう書いています。「その心を そのがんばりを/私が みんなもらってる/そして 若い人にうけついでもらう」。今年6月、としをの評伝『不屈の人物語「女工哀史」』(石田陽子著)が出ました。今につながる和喜蔵からのバトンです。」
(19日付けしんぶん赤旗「潮流」より)
お盆休みも終わり、世間は普通?の生活に戻りました。私は、2日間の休みを頂き、1日は大阪に墓参りに行き、もう1日は、長女の帰省に合わせて越前海岸に行きました。ただ、21日から4日間の休みで、嫁さんの実家のある佐賀県・嬉野市に法事で出かけます。私自身は乗り気でないのですが、1日だけ長崎市内を観光出来るので、渋々行くことにしました。「写真は、「鞠山海釣り公園」でこの日釣れていた豆アジです」
お盆休みもそろそろ終わりですね。
2025/08/16
「太平洋戦争の激戦地だったパラオ諸島のベリリュー島で遺骨の収集作業が続いています。昨年、大規模な日本兵の集団埋葬地が見つかり、島には今でも多くの遺骨が眠っているといいます。戦争が終わってから80年もたちながら、いまだに骨さえ帰らぬ人びと。先の大戦によって海外などで亡くなったとされる約240万人のうち、112万人の遺骨が遺族らの元に戻っていません。全国戦没者追悼式でそのことに触れた石庭首相は「一日でも早くふるさとにお迎えできるよう全力を尽くします」と。政府は2016年に遺骨収集を「国の責務」としましたが、時の経過とともに困難さは増しています。無謀な戦争の傷跡はここにも。追悼式の式辞で石庭首相があの戦争に「反省」の言葉を使ったことが話題になりました。再登板した安倍首相の式辞以降、「反省」が消えたことから13年ぶりの復活だとして。しかし、どこを反省し、何を教訓とするのか。肝心なことには口をつぐみ、アジア諸国に対する加害にも触れずじまい。あれだけの悲惨を内外で引き起こしながら、そうした自民党政権の姿勢が、侵略を否定するデマや極右・排外主義の台頭につながっているのではないか。戦没者遺族の代表は紛争が絶えない世界に目を向けて「戦後の厳しさを体験しているわが国は、今こそ争いのむなしさ、復興の難しさ、平和の尊さを世界へ訴えることが求められている」。戦後80年、新たな地平を切り開く時代の転換をー。」
(16日付けしんぶん赤旗「潮流」より)
世間は「お盆休み」で、高島市にも旅行客が多く見られます。先ほども「マキノピックランド」に行きましたが、銀座のような混雑です。明日で、この休暇も終るのでしょうが、また静かな町に戻るのでしょう。「写真は、14日(木)に訪れた「鞠山・海釣り公園」ですが、まさに「豆アジ」が釣れていました」
大阪まで墓参りに行って来ました。
2025/08/13
「本音つぶやく父を殴った憲兵」「さいたま市 坂本 泰造(88歳)」「終戦記念日が来ると、思い出すことが一つあります。それはある夜、憲兵が「国のやることに文句を言うな!」と叫び、父のほおをバシッと殴った事件です。太平洋戦争末期。私が国民学校2年生の時でした。いったい、父は何をしたのでしょうか。それは隣組の会合の時、ふとつぶやいた本音が問題になったのです。そのつぶやきとは「国は、竹やりで敵と戦うんだと言うけれど、敵は鉄砲だよ。こっちは、竹やりだ。それで勝てるんかねぇ」という、真っ当なつぶやきでした。ところが憲兵は問題だと怒り、父を殴ったのです。今思うと、人権を無視し言論の自由を弾圧した憲兵。その威圧的で無法な言動は決して、許せません。ますます怒りがわいてきます。戦争中、言論は厳しく取り締まれました。二度と息苦しい世の中はゴメンです。「言論の自由」ー。それは、宝です。」
「敗戦認めない若い先生の姿」「兵庫・西宮市 阿波角孝治(87歳)」「1945年8月15日の午後。帽子もかぶらずに、太陽が照らす田舎道を黙々と歩く母の後を追っていた。母はその日、満1歳の誕生日を迎えた下の弟をおんぶしていた。暑さは覚えていない。子ども心にも「間違いなく大きな変化が起きるだろう!」との思いが生じていた。やがて、母の大叔母宅に着いた。母が「どないや?」と口にした。家の人は「負けたがな!」と静かに云った。特段慌てた様子もなかった。翌日、登校日だった。言い合わせたわけではないが、誰もが防空頭巾を持って来なかった。神戸からの疎開の子1人を除いて、若い女性に先生は激怒した。「なぜ、持ってこなかった。先生はアメリカに敵を討ちます」と涙を流していた。私たち国民学校(初等科)の2年生の子たちは違和感を覚えてポカンとしていた。」
(13日付けしんぶん赤旗「読者の広場」より)
昨日、12日は大阪・大東市まで墓参りに出かけました。いつもなら、恩師のS先生と待ち合わせをして、「昼飲み」をするのですが、もうお亡くなりになったのでそれも叶いません。墓参りを済ませると、大阪・梅田の阪神百貨店に立ち寄り、夕食の総菜を買い求め、午後3時15分の電車でトンボ返りしました。こんなに早く帰ることはなかったのですが、これからは普通になるのかもしれません。「写真は、県立平和祈念間の石碑と玄関口です」
鹿児島、住宅複数が倒壊。
2025/08/09
「長崎の被爆遺構として多くが訪れる浦上天主堂。かつてここには大小、二つの鐘がありました。しかし原爆によって双塔の鐘楼が吹き飛ばされ、小鐘は大破。がれきの中から見つかった大鐘だけが鳴らされてきました。今年、被爆80年にあわせて失われた小鐘が復元されました。長崎市に住む被爆2世が提案し、米国の大学教授、ジェームズ・ノーラン・ジュニアさんが実現のために尽力しました。彼の祖父は原爆開発のマンハッタン計画に参加した医師でした。ノーラン教授は全米各地で被爆の実相を伝える講演を重ね、たくさんのカトリック信徒たちから寄付を集めて寄贈。復活した鐘が平和と希望、そして日米の連帯を深める象徴になることを願って。ノーラン教授の祖父は原爆投下後の日米合同調査に参加した医師の1人だったといいます。いまの長崎大の医学部では、その前身の長崎医大による当時の救護や調査活動の記録を紹介する資料展が開かれています。長崎医大は原爆によって教職員や学生、患者らおよそ900人が犠牲に。みずから被爆し、重症を負いながら救護に奔走した永井隆・医学博士の「原子爆弾救護報告」も展示。そこには「酸鼻の極みを呈したこの一刻の光景を眼底より払い去ることが出来ない。古くから言い伝えられた世の終わりの姿と云うべき将又(はたまた)地獄の形相とでも云おうか」と。永井博士が詠(うた)った<新しき朝の光のさしこむる荒野に響け長崎の鐘>。戦後80年の時を経て、きょう、二つの鐘がそろって鳴り響きます。」
(9日付けしんぶん赤旗「潮流」より)
私事ですが、21日から24日まで嫁さんの実家で法事のため佐賀県・嬉野市に行きます。1日だけ余裕があるので、久しぶりに長崎市を訪ねたいと思います。時間の許す限り、グラバー邸や大浦天主堂、平和公園に行きたいと思っています。「写真は、県立平和祈念間の戦争展の展示物です」
被爆80年になりましたね。
2025/08/06
「あの日、6歳だった岸田弘子さんは爆心地から1・5`の自宅で被爆しました。離れのトイレにいた時、ドーンという音とともに目の前は真っ暗に。崩れ落ちた土塀の下から「助けて、お母さん」と叫んでいました。母に手を引かれ逃げる最中に見た無言の人の行列。息の絶えた子を背負い、食べ物を求める若い母親。真っ赤なトマトに垂れた黒い雨。子ども心に焼き付いた強烈な記憶は悪夢のようによみがえりました。広島市の広報「市民と市政」の最新号に、86歳となった岸田さんの写真が掲載されています。娘と孫、ひ孫とともに、平和記念公園で手を合わせる姿。受け継がれていく平和を願う祈りです。岸田さんの記憶は世代を超えて伝えられ続けています。20歳で最年少の被爆体験伝承者となった増本夏海さんもその1人。「聞くだけでなく、自分も平和のために何かしたい」と。被爆2世の山本悦子さんも広島を訪れた人々に講話しています。伝承者の講話の場には高校生らの姿も。彼らは日本政府に核兵器禁止条約の批准をと訴える署名も呼びかけていました。広島市内で開かれた全国高校生平和集会は、人類が核兵器とは共存できないことを、いま改めて学び、行動することの大事を。被爆から80年。その歩みは、核廃絶をめざすたゆまない運動と重なります。世界で、日本で、逆流が起こる中、連綿と引き継がれてきた平和への思い。「無差別に殺された多くの命を過去のものにしないで」。被爆者、岸田さんの心のさけびです。」
(6日付けしんぶん赤旗「潮流」より)
被爆80年と言うけれど、被爆2世にも数々の差別があったようです。特に結婚の話になると、相手の両親から「被爆していて、普通に子どもがつくれるの?」「何もそんな人を選ばなくても?」なんて事もあったようです。さて、昨日5日(火)は、県立平和祈念館(愛秦町)まで、お借りしていた「パネル」の返却に行きました。久しぶりの来館だったので、開催されていた「戦争展」も見学して来ました。「写真は、県立平和祈念間に展示されていた戦争展です」
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