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台風11号が接近中です。
2022/09/06

「サンマ 不漁いつまで?」「秋の味覚サンマのシーズンが到来。近年は不漁続きで、細くて小さい割に値段が高くなっています。いつになったら漁が回復し、脂の乗った塩焼きを食べられるのでしょうか。資源研究者も頭を悩ますばかりですが、中には「イワシが不漁になれば」との声もあります。サンマ漁は、主力となる大型の棒受け網漁船が、毎年8月下旬に操業を開始。以前なら9月に入ると、北海道などの漁港でサンマがあふれ、首都圏のスーパーでは大きなサイズでも1匹100円ほどの特売が行われました。ところが、最近は小型魚ばかりで量も少なくんっています。2000年以降、年間20万〜30万dあった漁獲量は近年急減。昨年は2万dにとどきませんでした。東京都内のスーパーでは昨年、ほっそりとしたサンマが200円以上で売られることが多くありました。不漁気に入ったサンマは、海水温の上昇など海洋環境の変化に加え、外国漁船による初夏の「早取り」など、さまざまな要因が指摘されてきました。国内の資源管理デサンマを増やそうとしても、難しい状況にあります。サンマの寿命は長くて2年で、漁獲するのは主に1歳魚。「外国船も含めて1年くらい禁漁にすれば、資源は回復するのではないか」と指摘する声もあります。しかし「生まれても餌が少ないことなどで、成長前に死んでしまうケースが圧倒的に多い」(資源研究者)といい漁獲が不漁の最大の要因ではないかという見方が多くなっています。じっと豊漁になるのを待ち族けなければなりませんが、復活へのちょっとしたヒントはあります。過去の漁獲データーから「イワシが増えている時は、サンマ漁が低調」(同)という傾向があります。資源調査でも「イワシとサンマのの分布ははっきりと分かれ、日本に近い近海でイワシが豊漁になると、サンマが来遊しにくい」(同)といいます。2魚種は動物性プランクトンの餌でも競合関係にあるとされています。イワシが順調に取れている今は、サンマが少なくなっています。しばらくは不漁が続きそうですが、イワシが急激に減れば、サンマが一転して豊漁になる可能性のありそうです。(時事)」(6日付けしんぶん赤旗「政治・総合」のページより)この説が正しかったら、また大きなサンマが安く食べられることになるので、今は我慢の時かもしれませんね。さて、台風11号が日本海を北上中ですが、ここ安曇川でも風速10b前後の突風が吹いています。今は雨が降っていませんが、午後からは雨も強くなると予報されています。状況が悪化すれば、早じまいも考えなければいけません。「写真は、湯楽里に飾られたクマとシカのはく製と、温泉の由来の紫式部の人形です)

台風11号が接近中です。
2022/09/03

「「知らない街を 歩いてみたい・・・」の歌でもおなじみの旅番組「遠くへ行きたい」(日本テレビ系 制作・読売テレビ)。4日放送の「体感!国境の島 今昔ものがたりー長崎県・対馬市ー」は、俳優の竹下景子が旅をします。”国境の島”とは、韓国に近い島という意味です。竹下は「目保呂ダム馬事公園」へ。古墳時代に朝鮮半島から日本にやってきたといわれる対州馬(たいしゅうば)に会いに行きます。「ずっと会いたかった」と竹下。人懐っこい馬と触れ合い感激します。対州馬は、大きさはポニーほどです。古くから島の暮らしを支えてきた馬として知られています。旅といえば人との交流。竹下は「長崎県立対馬高校」を訪れます。「国際文化交流科」の授業をのぞくと韓国語で授業をしていました。卒業後、韓国に進学、就職する生徒が多いと説明を受けた竹下は、「桜ケ丘寮(女子寮)へ行き3年生と対話します。さらに「せん」というサツマイモのデンプンで作る郷土料理「ろくべい」作りを体験。絶滅危機種のツシマヤマネコを探すツァーに出発!旅の締めくくりは唐・新羅の侵略に備えたとされる山城「金田城」を目指します。目の前に広がる絶景とはー。」(3日付けしんぶん赤旗「社会・総合」のページより)この番組を見ると、「どこかに旅に出たいなあ」と思うのは私だけでしょうか?「旅に出て良いのは、帰る場所があるからだ。帰る場所のない旅が人生なら、それもまた良いだろう」と書いたのは「サトウハチロー」でした。さて、迷走している台風11号は、一転北上し6日(火)に近畿に最接近するようです。大きな被害が出ないことを祈っていますが、さてどうなる事でしょう?「写真は、今はなき寝台特急と、懐かしい電気機関車と、先頭車に付けられたヘッドマークです」

昨日は私の誕生日でした。
2022/08/31

「16代600年も続いてきた旧家でした。江戸時代までは武家でしたが、藩の没落で農家に。庭のツゲやマツは先祖代々うけつがれてきたもの。「帰れるもんなら帰りたい」。その屋敷で人生の大半をすごしてきた女性は涙をこぼしました。原発の事故によって埼玉県に町ごと避難した福島・双葉町。故郷を追われた苦難の姿はドキュメンタリー映画「フタバから遠く離れて」にも描かれました。築いてきた生業(なりわい)、地域や人とのつながり。すべてを奪われてからの歳月の重さがひしひしと。およそ11年半ぶりに、避難指示が解除されました。ただしJR双葉駅周辺のごく一部。いまだに町の大部分は帰宅困難地域として残ります。以前、真新しい駅舎の周りを歩いたことがありますが、荒れ果てた家や商店との対比にやるせなさが募りました。自宅にもどったばかりの住民は「復興には、まだまだ遠い」と話します。実際、帰還を希望する町民は1割ほどにとどまり、生活環境や放射能への不安から帰らないことを決断した人も。長期化する避難生活、収束のめどさえたたない事故。原発が立地する町は、それが人間の営みと相いれないことを切々と訴えています。いまも福島全体で3万人以上が避難するなか、岸田首相は原発7基の再稼働追加と、運転延長や新設まで検討するよう指示しました。まるで、事故などなかったかのような無責任の極み。汚染水の海洋放出にも前のめりです。人生の最後はふるさとですごしたいーその言葉をなんと聞く。」(31日付しんぶん赤旗「潮流」より)人生の中で、10年以上もブランクがあれば、生活の拠点も変わってしまい元に戻るのは老人ばかりになりそうですね。さて、昨日8月30日は私の70歳の誕生日でした。とりあえず、希望していたお寿司と唐揚げとケーキでお祝いしてもらいました。いよいよ人生も終盤に向かい、「あと何年生きられるだろうか?」と思いました。「写真は、昭和の駅舎と、なつかしいディーゼル特急と、電気機関車です」

暑さもやわらぎました。
2022/08/28

「連載の1回目でとりあげたのは、長野・松本市の食堂「ピカドン」でした。広島で被爆した前座良明さんが開き、店先に飾られていた折り鶴。それがヒントになりました。日本原水爆被害者団体協議会が月1回発行する「被団協」新聞。そこに、40年以上500回にわたって描かれた4コマ漫画があります。最後の被爆漫画家といわれる西山進さんの「おり鶴さん」です。西山さんは17歳の夏、養成工として働いていた三菱長崎造船所で被爆。無数の死体とうめき声の中を救助に回りました。そのときの生き地獄が、戦争と原爆の惨禍を二度とこの地球上にもたらしてはならないとの誓いにつながったと。25歳で漫画家をめざして上京、新聞の連載を始めたのは1979年から。以来、被爆者や戦争体験者の心からのねがいを怒りや悲しみ、笑いや温かさを交え、わかりやすく伝えてきました。庶民の営みや運動、権力への風刺をおりこみながら。今月「おり鶴さん」が単行本となって出版されました。いまは94歳で療養中の本人も「ひとりでも多くの人に原爆の恐ろしさを知ってほしい。この本を手にとってもらえたら」と喜びます。世相を映しながら平和への強い思い、それに背を向ける政治への憤り、そして未来への希望を折り鶴に乗せてきた西山さん。そこには核廃絶を求める世界中の市民と同じ思いが流れています。悪魔の兵器にしがみつく一部の大国を包み込む圧倒的多数の声。それこそが西山さんが描いてきた草の根の力です。」(28日付しんぶん赤旗「潮流」より)西山さんの根気強い運動のおかげで、弟2の広島や長崎が起きていないことも事実ですね。さて、朝夕がめっきり涼しくなり、セミの鳴き声も遠のき、コオロギが静かに鳴いています。こうなると、あの夏のうだるような暑さが懐かしくもあります。「写真は、動体保存されている梅小路機関庫の景色です」

クツワムシが鳴いています。
2022/08/25

「わがまち ふるさと」「和歌山県・すさみ町」「紀南地方の海岸沿いには地質学的な見所といわれるジオサイトが多くあり、和歌山県すさみ町も紀南の9市町村と奈良県十津川村の一部で構成された「南紀熊野ジオパーク」のエリアに入っています。その一つに、世界的にも名の知れた褶曲(しゅうきょく=深い海にたまった砂や泥が陸地に押し付けられ折りたまった岩石)があります。自然環境に配慮した褶曲への歩道の整備が行われています。現在、紀南のジオパークが世界ジオパークに推薦されるかどうか調査の段階です。推薦されれば2025年3月に認定の可否が決まります。2015年に紀勢自動車道が開通し、すさみ南IC降り口にある「道の駅」は海岸の高台にあり、隣接した「エビとカニの水族館」ではめずらしい甲殻類に出会えます。防災の道の駅としても選定されており、まちでは防災に力を入れています。また、和歌山県内2番目に高齢化率が高いすさみ町は、子育て応援の施策を進めながら、空き家対策や定住支援にも取り組んでいます。小さな町ながら、国保すさみ病院の建て替えも決まり、来年秋に移転するはこびとなっています。(竹本直美町議)」(25日付しんぶん赤旗「地方・総合のページより)すさみ町は以前「周参見」町と書いた記憶があります。まだ、私が20代の頃、高校生時代の友人と1泊した思い出があります。宿舎の目の前の海で、釣りをしましたが、大きなグレやタイが簡単に取れました。海の美しさは抜群でしたが、お昼に食べた「サンマ寿司」は忘れられません。あの頃は紀勢線で行ったのですが、白浜駅より先に行ったことがなかったので、随分と遠く感じました。あれから45年が経ちましたが、今も変わらない海でしょうか?さて、夜に近所を散歩すると、クツワムシの騒がしい鳴き声が聞こえて来ます。朝夕がめっきり秋らしくなり、虫もそれを感知しているのでしょう。「写真は、色々な信号機の展示と、シユミレーションで運転体験する孫と、広い模型の列車が走るコーナーです」

5年ぶりの京都交通科学館。
2022/08/22

「再審請求の男性「無罪の獲得を」」「愛知県豊川市で2002年7月、1歳男児を車から連れ去り殺害したとして、殺人などの罪で懲役17年の有罪判決が確定し、刑期を終えて出所した田辺(旧姓河瀬)雅樹さん(55)=再審請求中=が20日、大分市内で記者会見し、「全く事件に関わっていない。再審無罪を獲得したい」と改めて訴えました。17年の刑期を「非常に長かった。いつ無罪になるかということばかり考えていた」と振り返り、「一日も早く社会に慣れ、通常の生活をしたい」と語りました。弁護団長の後藤昌弘弁護士は再審について「できる限りのことはしたい」と述べました。田辺さんは03年に逮捕され、捜査段階でいったん自供したものの公判で全面否認に転じ、自白調書の信用性が争点となりました。一審名古屋地裁は無罪としましたが、二審名古屋高裁が逆転有罪を言い渡し、08年に最高裁で確定しました。日弁連の支援を受け、16年に再審請求。名古屋高裁で棄却され、同高裁で異議審が続いています。19日午前に大分刑務所を出所しました。」(22日付しんぶん赤旗「社会・総合」欄より)この再審請求の案件は意外と多く、全国で争われています。この事件も現地調査では矛盾がいっぱいあり、供述との矛盾がありました。それにしても、一旦有罪になるとその門戸が狭いのは国民が知らない事です。さて、20日(土)は長男の孫が7歳の誕生日だと言うので、お祝いに駆け付けました。大の電車好きで、本人の希望で「京都交通科学館」に行きました。あまり本物の電車に関心はなく、模型の電車に夢中でした。「写真は、入り口に展示されている0系新幹線と、湘南型急行列車と、今は懐かしい大阪環状線の電車です」

つくすくほうしが鳴いています。
2022/08/19

「いったい、あの大会はなんだったのか。オリンピックとは、スポーツとは・・・。1年が過ぎたいまも問われつづけています。余韻どころか、負の遺産や不信がぬぐえない東京五輪です。「アスリートや日本国民のためではなく、IOCや電通をはじめとする五輪貴族や特権階級のための催しではなかったか」。広告大手の元社員で『東京五輪の大罪』を著した作家の本間龍さんは、金もうけの巨大な欲望だけがあった五輪だったと指摘します。招致段階からの不祥事や疑惑の数々、ふくれあがった大会経費はコンパクトや復興、多様性と調和といったスローガンを早々と消し去りました。コロナ禍の強行で残ったものは政官財が一体となって利権にむらがる姿か。大会組織委員会の元理事がスポンサーに選ばれた企業からわいろを受け取り、見返りに便宜を図ったとして逮捕されました。五輪を私利私欲に利用する構図からうまれた汚職です。前回五輪まで十数社だったスポンサー企業は東京五輪では60社以上にのぼりました。そのすべてを取り仕切っていたのが広告最大手の電通です。罪に問われた元理事はその電通内で「スポーツビジネスのドン」と称される人物だったといいます。闇に隠された金の流れはこれだけではないでしょう。オリンピックやスポーツの価値を大きく傷つけ、巨額の公金が投入された東京五輪。その検証や責任の追及もなく、いままた30年冬季五輪の札幌招致に動いています。人びとや社会からの信頼を失いながら。」(19日付しんぶん赤旗「潮流」より)初めて東京五輪が開かれた時は、私たちが小学校5年生の時でした。あの時は、純粋に感動する場面がありましたが、今回はどうでしょうか?名もなき国の選手が金メダルを取ったり、番狂わせがどれほどあったでしょうか?オリンピックの開催国になるには巨大な資金が必要になり、これでは発展途上国に開催する事はできないでしょう。さて、8月も下旬になり、今朝近所を散歩するとセミの鳴き声が変わっていました。あのクマゼミからツクツホウシになっていて、夏の終わりを告げているようでした。「写真は、敦賀市「鞠山・海釣り公園」で釣りを楽しむ人々です」

お盆も終わりましたね。
2022/08/16

「障害のある人は優性保護法下でかって、不妊手術を強制されました。その数約2万5000人。たまたま障害を持って生まれたために、生涯にわたる苦しみを味わされるような人権侵害を受けたのです。「優性上の見地から不良な子孫の出生を防止する」。同法のこの目的は1996年に法が廃止されてもなお、社会や私たちの意識に大きな影を落としています。障害のある女性が結婚、妊娠・出産、子育てをするには多くの困難があります。優性思想に裏打ちされた根深い障害者差別があるからです。結婚式の招待状を未開封のまま返された。2人目の出産前に不妊手術を勧められた。「子どもに熱が出たらどうするの?」と自身でケアできないことを責められる・・・。医療従事者や自治体職員など専門職に就く人の中に優性思想が潜んでいることも。障害者の生と生殖に関する健康と権利を無意識のうちに認めないような対応を取ることがあります。強制不妊手術の被害者は裁判で、障害者差別の解決を求めてたたかっています。弁護団に加わる藤原精吾弁護士は「障害があることでその人の評価を下げるのは、資本主義社会特有のことではないか」と問いかけます。生産性に価値を置く資本主義を乗り越えて、優性思想を克服するー。私たちには不断の努力を続けることが求められます。脳性まひで車いすを使う20代の女性の言葉が力強い。「障害のあるひとが『自分の人生』を生きることが妨げられるような差別は、私たちの世代で止めなければ」」(16日付しんぶん赤旗「潮流」より)自身の中にある「差別」は、あらゆる日常生活の中でも生まれています。特に身障者を見ると「気の毒だな」と思い、「あ〜あなったら大変やな」なんて考えてしまうことです。さて、昨日(15日)は、墓参り以外に初めてお休みを頂きました。どこに行くとも考えず、とりあえず敦賀市の「鞠山・海釣り公園」に向いました。「写真は、鞠山・海釣り公園ですが、お昼を過ぎていたので帰路に着く人も、その中でアジが釣れていましたし、隣のバケツではサンバソウ(石鯛の子ども)やチャリコ(鯛の子)が釣れていて、楽しそうでした」

大阪まで墓参りに行って来ました。
2022/08/13

12日(金)は、恒例のお盆の墓参りに行って来ました。安曇川駅発10時18分の新快速・姫路行に乗り、予定では大阪駅に午前11時30分に到着予定でした。ところが、京都駅に停車中に車内で急患が出たととかで、発車が5〜6分遅れました。大きな影響ではありませんが、今日は何かが起きそうな予感がしました。鴻池新田駅に午前12時10分に着き、急いで墓参りに行きました。まだ12日という事もあり、墓前に花が生けられてるのは3分の1ほどでした。駅に戻り、約束していたS先生とY君、H君と私ども夫婦の5人で、先生が予約していた「料理屋」に行きました。私自身、めったにないのですがビールで乾杯し、出て来た料理に舌ずつみを打ちました。2時間ほど滞在した後、コーヒーでも飲もうと近所にある喫茶店でくつろぎました。約1時間ほど滞在の後、今度は9月20日頃に会う約束で、S先生と駅前で別れ、それぞれの帰路につきました。大阪駅発午後5時ちょうどの新快速野洲行きに乗りました。まだ、まっすぐ帰るには早いので、京都駅で下車しました。この時も、京都駅の手前で人身事故があったとかで2〜3分の遅れが出ました。改札を出ると、京都タワーの6階でビアガーデンがあるようで行ってみました。ビル内で迷いながら、なんとか受付まで行ったのですが、バーベキューのお店で、予約が必要だとの事でした。すごすごとビルを後にし、地下のポルタを歩き回りましたが、どこも行列が出来ていて、あきらめました。結局、いつも訪れる「京都劇場・がんこ」に行きました。生ビールを2杯と、串カツ、豚ぺい焼き、まぐろの握りの盛り合わせで1時間ほど滞在しました。嫁さんが、今日は1万歩歩いたと言って、喜んでいました。「いや〜、今日はくたくたやわ」と返事をしておきました。京都駅発午後8時28分の普通近江今津行きに乗りこんだ頃は、すっかり夜になっていました。午後9時20分には近江高島駅まで帰って来たのに、車内放送で「先頭車の窓ガラスに鳥が当たり、ひびが入った」との事でした。「え〜っ、もう一駅なのに」と思い待ちましたが、15分は動きませんでした。よおやく発車出来たのは、20分後の事でした。安曇川駅に着いたのは午後10時になっていました。今日は、3回も電車の遅れがあり、最後の1回は帰れるかどうか心配しました。今朝、起きると右足が痛み、歩行に困難を来しています。まあいくら歩いたかは知りませんが、これくらいで痛む足に情けなくなっています。「写真は、しきぶ温泉・湯楽里で食べたこの日の昼食です」

暑い日が続きますね。
2022/08/10

「世界大会 2022 取材団」「「長崎を最後の被爆地に」と核兵器廃絶を世界に訴え続けてきた被爆者。被爆77年の長崎平和式典は、発効した核兵器禁止条約を力に、平均年齢が84歳になった被爆者の願いとそれを引き継ぐ市民らの決意があふれるものでした。開会は、新型コロナ禍を乗り越え3年ぶりとなる、被爆者歌う会・「ひまわり」による「もう二度と」の合唱で始まりました。「♪もう二度と作らないで 私たち被爆者を この広い世界の 人々の中に」と歌い上げると会場から大きな拍手が起きました。被爆者代表として、「平和の誓い」をのべた宮田隆さんは、「核兵器禁止条約をバネに、私たちの強い意志で、子、孫の時代に、核兵器のない世界実現への願いを引き継いでいく」と表明しました。ロシア・プーチン政権が核兵器で脅しながらウクライナ侵略を続けるなか、田上富久長崎市長は、「暴力で解決しようとする”暴力の文化”ではなく、信頼を広め、話し合いで解決しようとする”平和の文化”を」と訴えました。高校生平和大使の「微力だけど無力じゃない」を、平和を求める市民共通の合言葉にしょうと呼びかけました。(活)」(10日付しんぶん赤旗「国民運動」欄より)被爆から77年も経過すると、証言者も少なくなり歴史の継承が難しくなりそうです。私が初めて長崎の被爆地に訪れたのは、高校の修学旅行でした。この上空で核兵器が爆発したのだと思うと、ぞっとするような気がしました。さて、東北地方を中心に「豪雨被害」が相次いでいます。ここ安曇川ではほとんど雨が降らないのに、局地的な雨が大量に降るのも「地球温暖化」の影響でしょうね。「写真は、長浜市・余呉町にある「余呉湖」の景色です」

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