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諫早・国が上告断念。
2010/12/16

「秋田県の田沢湖は、「青い絵の具を溶かし込んだみたい」とたとえられます。深いるり色の湖水。みつめていると、吸い込まれてゆくような感じを覚えます。数年前のこと。湖上を遊覧船でめぐっていたら、乗り合わせた人が話しかけてきました。「きれいなるり色は、強い酸性の水が流れ込んできたせいだそうですよ」さっそく調べてみたのでした。日本一酸性の強い温泉、玉川温泉の水が玉川を通って入っています。戦争が湖を変えました。国は先の大戦中、発電所と農地を作るため、田沢湖を天然のダムにして玉川の水を引き込みました。温泉に含まれるアルミニウムの粒子が青色だけを反射し、湖がるり色にみえる、といいます。強酸性の水で、魚たちは死に絶えました。田沢湖にしかいなかった、美味のクニマスまでが。昨日、そのクニマスが山梨の西湖で生きていると分かりました。田沢湖から消えて70年。かつて卵を移していたらしい。「絶滅魚」の再発見は初めてです。いまは魚の姿が認められますが、公共事業で「死の湖」と化した田沢湖。いま、公共事業で「死の海」になりかねないのが九州の有明海です。政府は、諫早湾を閉め切る水門を開けるよう命じた福岡高裁の判決を受け入れ、上告をあきらめました。判決が生きてきます。諫早湾埋め立て閉め切りで、ノリ養殖もタイラギ漁もさっぱりだった漁業者が喜びます。「元の豊かな海が戻ってくるだろう」。というわけで、きのうは朗報が続きます。(17日付けしんぶん赤旗「潮流」より)「国営諫早湾干拓事業と開門裁判」農林水産省が「防災機能の強化」「優良農地の確保」を理由に2007年完成した事業。総事業費2500億円。諫早湾(長崎県)を約7`の潮受け堤防で閉め切り、干拓地と調整池を造成。1550fの干潟が失われました。2000年には有明海一帯の養殖ノリの大凶作が発生。有明海沿岸の漁民が開門などを求め訴訟で佐賀地裁が08年、福岡高裁も今月6日に開門を命じました。私は、今年の夏も諫早湾の堤防上の道路を島原半島に向けて走りましたが、この調整池なるものがドブ色になっていました。多分、下水が溜まってあのような状態になっているのでしょう。有明海の水質の悪化は驚くほどで、沿岸に何カ所か海水浴場がありますが、とても泳ぐ気にはなりません。それにしても、遅すぎた決断で干拓地ですでに営農されている人にとっては厳しい話しです。(写真は、朝日に輝くススキの穂です)

眼鏡の里 福井・鯖江B。
2010/12/11

「福井県に眼鏡枠づくりの技術を普及した増永五左衛門(ますなが・ござえもん)を祖父に持つ、増永眼鏡社長、増永悟さん(64)に今後の展望を聞きました。」「祖父は1900年代の初めごろ、貧しいこの地の村おこしとして眼鏡枠づくりを始めました。当時は日清戦争(1894〜95年)の後の不景気の時代で、田んぼを相続できない農家の三男は現金収入もまともに得られない状態でした。「やらなければ」ととりくんだと聞いています。農閑期の冬に、雨や雪が多く屋外労働が適さないこの地域は、家のなかでコツコツとでき、大きな設備投資もいらない眼球枠づくりが適していたのです。人々の生活向上が目的なので、祖父は人を育て、眼鏡枠づくりで独立した人がまた人を育て独立させるようにしてきました。鯖江もそうして産地として発展してきたのです。(力を合わせる)産地は、製造過程が分業化し、モノや人が集積しており、物資の調達や流通にとても有利です。また、産地には力を合わせるという素晴らしいメリット(優位点)があります。新技術や新製品の開発への投資でも、一企業の投資額は少なくても産地全体では大企業を超える大きな額となります。開発・工夫の切磋琢磨(せっさたくま)もあります。「あそこでこんな工夫をやった。なら、うちでもこんなこともできる」とね。ある企業が「自社が独自に開発した技術」と考えたとしても、ここではほとんど産地全体で開発したといってもいいと思います。私たちは90年代に低価格を迫られました。製造ー卸ー小売りという商品流通のなかで価格決定権を握る者の逆転が起こったということです。以前はメーカーが一番強く、商品は「製造コスト」に「適正マージン」を上乗せして売られていました。しかし、大手小売業が価格の決定権を握り、自分たちが売りたい価格から逆算して製造出荷価格を求めるようになったのです。小売業が求める低価格で造れない製造業者は「滅びよ」ということです。(日本人の感性)これに対し今、私たちがとっている策が、産地メーカーによる自社ブランドの取り組みです。価格をたたかれやすい委託生産でなく、自社で企画・デザインし、製造・調達し、売り、商品保証や修理などのアフターケアまでして、量販店の価格勝負に負けまいとする努力です。メーカーだけでできることではありません。部品造りやその加工、仕上げまで産地ならではの共同と連携の力があってこそできるのです。世界の眼鏡枠の生産は今、量でアジア、特に中国産が圧倒的です。確かに低価格は魅力の一つでしょう。しかし、加工の仕上がりの美しさ、正確さは、そう簡単に日本に追いつくことはできないでしょう。その美しさなど日本の文化のなかで培われた日本人独特の感性によるものだからです。日本人がヨーロッパのデザイン力や色彩感覚の豊かさに簡単に追いつけないのと同様です。日本の加工力に自信を持ち、デザイン力や企画力を高めて、産地のみなさんとともに、国内や世界に発信できる新しい眼鏡づくりに挑戦したいと思います。」(11日付けしんぶん赤旗経済面より)私を含め眼鏡界で増永眼鏡を知らない人は無いと思われるほど、「KOKI]ブランドで有名です。また、アフターケアも万全で、他のメーカーでは考えられないほど20年近く前の古いフレームでも部品が残っています。昨日も記事がありましたが、都合で割愛させていただきます。さて、昨日は都合で休業し「日野牛・岡崎」までお歳暮用の牛肉を買い求めました。その帰り「プリウス」用のスノータイヤを見に「イエローハット」に立ち寄りましたが、予約で一杯で来週にしてほしいと言われました。(写真は、クリスマス用に飾った当店の店頭の様子です)

眼鏡の里 福井・鯖江A。
2010/12/09

「鯖江市内での眼鏡の仕上げ加工をする大川幸夫さん(70)=仮名。「テンプル」「さや」などと呼ぶ眼鏡の柄の部分に曲げを付け、鼻のうえで眼鏡を支える「パッド」を整え、標準的な人の顔に合うよう、仮の調節をします。この道50年。立体として眼鏡の図面に指定された寸法どおりに、手作業だけで眼鏡の形をピッタリと仕上げます。「手の動きだけがたより。機械ではできない仕事」と大川さん。「でもね、技能を受け継ぐ者はいないんだよ」とぽつり。(下請けが減少)手作業を担う小・零細下請けが減少しています。市内の眼鏡関連事業所は、2008年までの5年間に640から531に減りました。うち、金属部品を接合する工程を担い、小・零細企業が多い「ろう付け」加工の事業所は92から64に3割減少しました。眼鏡枠の製造は、部品の生産や枠の組立のほか、研磨など、特殊な技術や熟練の技を要する多様な工程から成り立っています。一部は下請け企業が専業的に担います。”技術の分業”です。このなかで小・零細下請けは、勘と手の技を頼りとし、もっとも手間のかかる工程を引き受けてきました。市内北西部の加工工場。従業者が作業台に向かって黙々と「ろう付け」をしていました。作業台の機械には二つの部品が乗せられています。部品の間に細い金属板を差し込み、高温で金属板を溶かすと同時に高圧をかけて部品同士を接合します。作業は一瞬の間。プレスのタイミングや時間の長さなどは体感で覚えるといいます。しかし、この熟練の技が失われつつあります。「昨年から今年の春までに外注先の下請けが2軒、廃業した」。欧州向け眼鏡枠の組立加工する小規模メーカーの経営者はいいます。「父ちゃん、母ちゃんの二人でやっているような小さな下請けが熟練の技を支えてきた。これが失われれば鯖江の眼鏡枠の質は保てない」(最大手も懸念)長期にわたる工賃引き下げが小・零細下請けの経営を掘りくずします。「加工単価は1990年代半ばくらいから下がりっ放し。モノにもよるが、今はいい時の半分から4分の1。商売として成り立たないので、先輩や仲間がここ数年で次々やめていった」。眼鏡の枠や関連部品の研磨加工に携わる内藤章さん(47)=仮名=は悔しそうにいいます。市内では下請けに一切頼らずに生産するメーカーはありません。産地はメーカー、大、中、小、零細下請け企業が一体となって成り立っているのです。小・零細企業の激減は「産地の技術的分業の弱体化をもたらす」。市内最大手のメーカーも懸念します。しかし、廃業の増加に対する抜本的対策はとられていません。眼鏡工場の労働者、独立・開業の自営業者として10代の頃から眼鏡の加工に携わってきた内藤さん。「眼鏡の仕事が好き。産地で続けられるようにしてほしい」(9日付けしんぶん赤旗経済面より)(眼鏡枠の工程)「眼鏡枠の製造は、金属製なら約20種類の部品の接合、表面の磨き、着床、メッキ、組み立てなど200〜300の工程からなるといわれています。そのため、どの完成品メーカーも工程の一部を下請けに委託。鯖江市内の眼鏡関連事業所531のうち完成品メーカーは108、部品メーカーは69、メッキ、研磨など中間加工業が314となっています。うち研磨加工では従業者3人以下の事業所が85%、「ろう付け」加工では70.3%を占めます(2008年)私も会社員だった頃は、実に7年間も「ろう付け」の仕事を担当しておりました。本当に大変な仕事で「一回々気の抜けない作業」で、ある意味では一番難しい作業かもしれません。(写真は、水鳥が戯れる若狭町の三方五湖の一つ三方湖です)

眼鏡の里 福井・鯖江@。
2010/12/08

「国内最大の眼鏡生産の集積地である福井県鯖江市、「眼鏡の里」は円高に表情を曇らせています。」「福井県は国内の眼鏡枠の96%を生産します。その中心地が鯖江市です。稲の切り株が残る田んぼの間に大小の眼鏡工場が散在しています。(不況のたびに)その一つの小さな工場。眼鏡部品の研磨加工を営む業者は、「メーカーがまた加工賃を引き下げてくるのではないか」と、発注企業からの単価切り下げを恐れています。20年以上研磨加工してきました。「モノが売れないので、眼鏡の仕事は減っている。これ以上単価が下がるとやっていけない」と言います。産地ではこれまで、景気悪化のたびに下請け単価を引き下げられ、苦しい経営を迫られてきました。今また、円高がこれに拍車をかけます。眼鏡枠のパーツを接合する「ろう付け」に携わるある下請け業者は、低単価に加え、2008年ごろから仕事が急減し、売上高がそれまでに比べ半減しました。給料が払えなくなり、やむなくパート労働者を解雇。家族だけで仕事をし、人が減った分の埋め合わせで経営者が一人で午前2,3時まで働くといいます。「円高で、メーカーが生産の海外移転をさらに進め、われわれのような小さな所は仕事がなくなってしまうのではないか」。経営者の表情は疲れと不安でいっそう曇ります。(ダブルパンチ)国内外の有名ブランドメーカーから委託受注して生産(OME)する中堅メーカーは、「打撃は大きい」と警戒します。納品先の欧州企業は、ユーロ安で発生する負担増を抑えようと、納入価格の引き下げを求めてきています。下げ幅は5〜6%。円高・ユーロ安が進めば、さらに低価格の要請も予測されると幹部は頭を痛めます。円高による懸念とともに、同社が憂慮するのは国内景気の低迷です。「鯖江の眼鏡は低価格にはない質の高さが特徴です。消費の低迷から受ける影響はとても大きい。国内景気の底上げをなんとかしてもらいたい」一方、海外と国内の双方に工場を持つ市内最大手のメーカーの幹部も、「円高だと輸入には有利なはずだが、実際のメリットは多くない」と厳しい表情です。円高の分だけ安く輸入・仕入れできても、国内では眼鏡の大手安売りチェーンが「円高還元セール」などと銘打って低価格販売を強化。安売り競争に拍車がかかり、出荷価格は下がるといいます。(市当局も懸念)プラザ合意(1985年)以来の円高で、生産を国内から海外にシフト(移行)せざるをえなかったとする同社。円高がさらに進行すると海外生産を加速させることも示唆しました。鯖江市の眼鏡産業は、市内工業従業者数の半分、出荷額の4割を占め、税収の2割を稼ぎ出しています。鯖江市商工政策課の中村修一課長はいいます。「私たちの聞き取り調査でも、メーカーに対する生産契約の先送りなど円高の影響が出はじめている」(8日付けしんぶん赤旗経済面より)(眼鏡枠の産地・鯖江)日本はイタリア、中国と並ぶ世界的な眼鏡の生産国です。鯖江市内での生産は、1905年に篤志家増永五左衛門が農閑期の家内工業として普及したのが始まり。1970年代には世界で初めてチタン合金の眼鏡枠製造技術の確立に成功。市内の眼鏡製造関連従業者は5308人、出荷額は761億円のぼります(2008年)。私が鯖江の工場を見学したのは、今から30年以上も前の事ですが大きな工場は数えるほどで、ほとんどが家内工業の様な所でした。あまり自分の業界の事は語りたくないのですが、当時の眼鏡業界の総売上高が7000億円と言われていたのですが、昨年は4000億円まで減っていまいました。主な原因は、来客数に大きな変化が無いのですから、一人あたりの販売額(安売り)の低下だと思われます。(写真は、久しぶりに訪れた美浜町の水晶浜と美浜原発の遠景です)

東北新幹線が全線開業。
2010/12/05

「東北新幹線は4日、残っていた八戸ー新青森間約82qが開業、東京ー新青森間が全線開業しました」とここまではテレビや一般の新聞でも報道されています。「新幹線全線開業を祝い、たくさんの歓迎イベントもおこなわれるなど、全線開業による経済波及効果などへの期待が高まっていますが、多くの課題も残されています。その一つが、青森県にのしかかっている財政負担です。盛岡以北の新幹線建設に地元負担が持ち込まれたため、東北新幹線、北海道新幹線建設に関する青森県の負担は、合わせて約2600億円と見込まれています。「青い森鉄道」開業の初期投資が84億円、鉄道資産買い取りが80億円。さらに毎年16億円の県の持ち出しが見込まれるなど、県財政を圧迫しつづけることになります。」また「新幹線の開業により、JR東北本線の八戸ー青森間の並行在来線は同日、第三セクター「青い森鉄道」に移管され、東北線は消えました。」(4日付けしんぶん赤旗より)新幹線の停車駅は便利になりますが、ローカル駅の通勤・通学の足が奪われたり、運賃の値上げになるのではないかと心配しています。来春の4月には九州新幹線が開通して、新大阪ー鹿児島中央が3時間30分前後で行けるようにもなります。その中で、長崎新幹線も計画されていますが、同じように在来線が第三セクターになるという話に沿線住民は反対運動をされているようです。私も時々新幹線を利用しますが、ビジネスでは仕方がないですが「旅」に行くなら断然、「鈍行」の愛好家です。隣同士になれば世間話も弾み、時にはおやつを分けてもらったりします。また、小さな駅に乗り降りする人々のそこにも人生があることが実感されます。新幹線には、そんな旅の旅情などあるはずがありません。ところで、7年間使用していたデジカメを新しくしましたが、コンパクトになりとても持ち運びが楽になりました。(写真は、新旭町・風車村の紅葉です)

「名張・毒ぶどう酒事件」を考えるF。総集編。
2010/11/28

当日は、最初に「東海テレビ」が制作した「毒とひまわり」というビデオが上映され事件当時の映像が生々と流されました。ビデオが終わった後、特別面会人の稲生(いのう)昌三さんの熱のこもった話が始まりました。@面会人として面会出来るのは、6親等以内の親族と裁判所が認めた特別面会人(4人)だけです。それは、受刑者の心情の安定が必要だからと言うことですが、面会人がなければ「拘禁症」になってしまいます。A通常は「刑の執行」が午前10時頃に呼び出されるので、お昼が食べられたら今日は無事だった事になります。しかし、明日はどうか?明後日はどうかと不安に怯えます。B事件の起きた名張市・葛尾地区に検証に行くと「何しに来た!」と地区の人に言われます。車ではねられそうになった人もいます。村人にとって、犯人が外部から侵入した形跡無いことから奥西さんでなければ別の村人の犯行になるからです。C奥西さんが入れられている独房は、夏には40℃にもなり、冬には0℃になりますので体力的に厳しいものがあります。D写真などの差し入れが喜ばれますが、私が写ってないと返送されてしまいます。絵手紙などは私宛に送っていただけたら差し入れ出来ます。E奥西さんと話す中で、奥西さん自身の考え方は「死刑支持派」だという意外な事がわかりました。E奥西さんには二人の子供さんがおられ、長男は名古屋市内に長女は大阪市内におられるそうです。長男は一度面会に来られましたが、再審決定の結果マスコミが騒ぎ、自宅に押しかけたため再び面会に来られないとの事です。長女の嫁ぎ先は、事が公になれば追い出されるので面会には来られません。主に、奥西さんの妹さんが面会に来られることが多いです。F無罪から死刑に、しかも再審も含めると二度も言い渡された例は他にありません。G検察は「獄死」を待っているような対応の仕方です。必ず生きて死刑台から生還させなければなりません。その他、色々と話されましたが、メモが追いつかず、頼りない記憶?で申し訳ありません。講演が終わってから、近くの居酒屋で懇親会があり、私も参加させてもらいました。ここでは公(おおやけ)に出来ない裏話なども話され、私も何か協力出来ないか考えさせられました。滋賀県でも、「日野事件」という「えん罪事件」が発生していますのでもう少し国民も関心を持って欲しいものです。さて、掲示板にも書きましたが二晩続けてスナックに行き、カラオケを歌ったら声が出なくなりました。歌もほどほどにしないといけないなと、大いに反省しております。(写真は、初めて夜に訪れた敦賀・きらめき温泉リラ・ポートです)

「名張・毒ぶどう酒事件」を考えるE。
2010/11/25

(速やかな再審開始決定を!)最高裁が実験を示唆して審理を差し戻したのは、検察が開始決定の異議申し立の重要な根拠とした毒物についての主張を、科学的に解明する必要があると判断したからです。しかし、検察官が差し戻し審において、その主張も立証も留保(事実上の放棄)するということは、検察の異議申し立ての根拠が土台から崩れ去っていることを示すものです。異議申し立ての根拠がなくなった以上、弁護団が既に提出した毒物に関する意見書をもって、死刑判決は明らかな誤りがあるとして、即刻差し戻し審の審理を打ち切り、再審を開始すべきです。(隠している証拠を開示せよ!)検察は、弁護団が再三に渡って証拠開示を求めている事件直後の供述書(ぶどう酒を受け取った唯一の生き証人)をいまだに提出していません。検察に都合の悪い証拠は提出していないのです。こんなことが許されるはずはありません。今すぐ全ての証拠を開示すべきです。(一刻も早く釈放を!)勝さんは、2010年1月14日に満84歳を迎えました。2002年には胃の摘出手術を受けており、高齢による体力低下なども否めません。半世紀近くも長い間死刑囚として独房に閉じ込めていることは、人道上も許されません。勝さんを一日も早く青空のもとへ戻すことこそ社会の責務です。昨日は久しぶりにお休みを頂いて、何時ものように敦賀市までドライブをして来ました。「鞠山海つり公園」では、少し大きくなった小アジがぼつぼつ釣れていましたが、北風が強く寒さとの我慢比べの釣りになっていました。今日は、店の前の道路の融雪装置の調整が行われていますが、いよいよ冬本番に入りそうです。(写真は、久しぶりに訪れた安曇川町・三和漁港とまだ葉がついたままのポプラの木です)

「名張・毒ぶどう酒事件」を考えるD。
2010/11/22

(凶器はニッカリンTではなかった?!)「犯行に使われたとされるニッカリンTは、テップとよばれる農薬の一つで、事件当時、テップ系農薬はいくつかの製薬会社が製造していましたが、ニッカリンTの場合、製造過程で主成分のテップの他に、副生成物としてトリエチルピロホスフェートが生成されます。しかし、飲みのこりのぶどう酒からは、トリエチルピロホスフェートは検出されませんでした。このことは、事件後、三重県衛生研究所により行われたペーパークロマトグラフィによる試験結果からもみてとることができます。試験での対照用にぶどう酒にニッカリンTを入れたもの(対照検体)からは、試験紙にRf値0.95(テップ)、0.58(トリエチルピロホスフェート)、0.48(DEPP)がスポットとして発色して現れます。一方、飲み残しのぶどう酒(事件検体)からは、0.95と0.48の二つしかスポットが現れていません。当時の三重県衛生研究所の担当技術官は、飲み残しのぶどう酒(事件検体)からトリエチルピロホスフェートが検出されなかったのは、加水分解により消失してしまったので、検出されなかったとしていましたが、弁護団が国際的にも権威のある学者ら専門家に依頼したニッカリンTに関する様々な分析と実験の結果、ニッカリンTの製造方法によると必ず副生成物として、トリエチルピロホスフェートが含まれ、このトリエチルピロホスフェートの加水分解速度はテップと比較すると非常に遅いことが判明しました。一方、ニッカリンTと異なるS社のテップ系農薬の製造法によると、トリエチルピロホスフェートが生成されないことが化学方程式による数式理論からも実際の実験結果からも科学的に明らかになりました。つまり、飲みの残りのぶどう酒からテップが検出されているにもかかわらず、トリエチルピロホスフェートが検出されないということは、事件に使われた農薬は奥西さんが所有していたニッカリンTではなく、別のテップ系農薬の可能性が非常に大きいということです。それにしても、この事件に対する弁護団の執念を感じさせ、感動さえ覚えました。(写真は、若狭町で買い物を終え車に戻る長女と嫁さんとレストランの向こうに見える三方湖です)

「名張・毒ぶどう酒事件」を考えるC。
2010/11/21

(唯一の物証「歯型鑑定」はインチキだった!)「崩された死刑判決の根拠」「死刑判決の最大の根拠になったのは、王冠の歯型鑑定でした。勝さんはぶどう酒の王冠を歯で噛んで開けたと「自白」しており、公民館の火鉢から発見された王冠のキズ(証19号)と、勝さんが事件後の検証で噛んだ王冠の歯型(証42号)が、顕微鏡写真で一致するというものでした。ところがこの鑑定写真は、右(証19号)が左(証42号)の2倍に拡大されていて、両者のキズがあたかも一致するように見せるための不正写真だったのです!再審弁護団は、このキズを三次元的に測定すると両者はまったく一致しないという新鑑定(写真A・土生鑑定)を提出。再審請求を棄却した名古屋高裁でさえも、この事実を認めざるを得ませんでした。死刑判決の唯一の物証が崩れたのです。死刑判決の根拠となった「松倉鑑定」(1968年)と第5次再審で提出された「土生鑑定」(1987年)。「松倉鑑定」の写真は、素人目では分かりませんが、「土生鑑定」の写真は素人目にもはっきりと違いが分かります。科学は日々進歩しておりますので、この再鑑定がもっと早くなされていたら良かったのにと思います。(写真は、紅葉に染まる蛇谷ヶ峰です)

「名張・毒ぶどう酒事件」を考えるB。
2010/11/20

(犯行機会は勝さん以外にもあった!)「ぶどう酒の「到着時刻」が事件のカギ」「死刑判決は「勝さんが公民館で一人になった10分間以外に犯行の機会はない」としています。本当にそうなのでしょうか?事件当日のぶどう酒の足どりを見てみましょう。@ぶどう酒が懇親会に出ることが決まったのは当日の朝。決めたのは三奈の会会長・農協に勤めるN氏で、農協職員のRさんに購入を命じた。ARさんは村に飼料を運ぶため農協に立ち寄った車に便乗し、H酒店で清酒2本とぶどう酒1本を買い、N氏宅に運んだ。受け取ったのはN氏の妻・F子さん(事件で死亡)。Bその後隣家の勝さんがN氏宅に来て、5時20分頃公民館に運んだ。事件当初、Rさんや酒屋など運搬に関わった村人たちは、「ぶどう酒がN氏宅に届いたのは4時前」と証言していました。公民館に運んだ時刻が5時20分なら、N氏宅に1時間以上も置かれていたことになります。つまり、N氏宅でも犯行機会があったと考えられます。ところが、事件から2週間以上経ってから「ぶどう酒がN氏宅に届いたのは勝さんが来る直前」と関係者らの供述がいっせいに変わってしまうのです。しかしこの証言では矛盾が生じます。ぶどう酒をN氏宅へ届けたRさんはその後、5・7キロ離れた広島屋へ自転車で折り詰め弁当を取りに行っているのですが、広島屋の証言によるとRさんが来た時刻は5時10分。ぶどう酒がN氏宅へ到着した時刻が勝さんが取りに来た5時20分の直前であるはずがないのです。第一審・無罪判決は記憶が新しい事件当初の供述を採用し、「勝さん以外にも犯行機会はあった」とし、村人たちの供述の変更については「検察官の並々ならぬ努力の所産」と捜査当局の意図的な供述操作を痛烈に批判しました。しかし、二審では変更後の供述を採用し、「勝さんにしか犯行の機会はない」として、有罪・死刑としたのです。「酒を売ったH酒店」「Rさんに売ったのは2時半から3時頃」→「4時を過ぎていたのではないかと言われれば、あるいはそうでないかと思います。確かなのは昼ごはんと夕ごはんの間ということです」。「酒を運んだRさん」「2時頃農協を出て酒を買った。Nさん宅に届けたのは2時か3時頃」→「Nさん宅に届けたのは4時半から5時の間違いでした」。「N氏宅にいたI子さん」「検察官は初期の供述を公表していない」→「5時10分にF子と一緒に受け取った。忘れた。5時のサイレンより前だったかもしれない」。まあ、人の記憶などこの様なものかもしれませんが、それで無罪が死刑になったのでは、何ともやりきれません。(写真は、若狭町にある縄文・ほのぼの市と梅から作ったワインです)

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