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「名張・毒ぶどう酒事件」を考えるA。
2010/11/18

次々と崩れる物証と事実関係の矛盾。「自白は信用できない」(証拠がない疑問だらけのストーリー)「勝さんは、@犯行前夜自宅にあった農薬・ニッカリンTを竹筒に入れ、丸めた新聞紙で栓をして犯行を準備し、A農薬のビンは当日の朝、近くの名張川に捨て、B公民館にぶどう酒を運び、一人になった隙に竹筒内のニッカリンTを混入し、C竹筒を公民館のいろりで焼いた、と「自白」しています。ところが事件直後、名張川を大々的に捜索したにもかかわらず、農薬ビンはかけらも見つからず、公民館のいろりから竹筒の燃えかすもリンの成分も発見されていません。「自白」を裏付ける物証は、何ひとつないのです。また、懇親会でぶどう酒がふるまわれることが決まったのは当日。それなのに「前日から犯行の準備をしていた」という「自白」は何とも奇妙です。さらに、公民館でぶどう酒にニッカリンTを入れるという肝心の場面の時期や状況についての自白内容がころころと変わり、「ここが一番はっきりしない点だ」と勝さんは言うのです。一生忘れられないはずの犯罪決行の時のことを覚えていないはずがあるでしょうか。さらに、三角関係の清算が犯行の動機とされていますが、勝さんと妻、愛人はいつも連れだって仕事をし、三人で仲良く映画に行ったりと、全然深刻さがなかったというのです。(反社会的行為ですが当時、この辺りでは普通にあったそうです)この他にも事実関係と自白内容には数々の矛盾があります。それもそのはず、「自白のストーリー」は捜査官のでっち上げで、新しい証拠がでるたびにつじつまをあわせるため、話が二転三転させているのです。勝さんは「全部調べが終わったら本当のことを聞いてやる」と言われ、最後になって無実を主張するまで話を聞いてもらえなかったのです。」私にも経験がありますが、刑事が遺留品のメガネを持参して「これから分かることがあるか?」と聞くので、メガネの度数、レンズメーカー、フレームメーカー、削ったレンズの機械メーカー、と細かく説明しました。ところが、「あそこの誰々は、仕事してないけどどうしとるの?」「別の誰々は、近所ともめ事が多いみたいやけど?」と予断で犯人を決めにかかるようです。さて、「大阪辺りでは信じられない!」でしょうが、「安曇川は、今日も雨だった」となっております。(写真は、近所の庭にある柿の木です)

「名張・毒ぶどう酒事件」を考える@。
2010/11/16

昨夜、安曇川町の「ふれあいセンター」で「国民救援会・高島支部」主催の講演会があり、前から関心があったので店を早じまいして参加しました。講演者は、国民救援会・愛知及び中央本部副会長で、死刑囚・奥西勝さんの特別面会人である稲生(いのう)昌三さんで、熱のこもった講演でした。名張毒ぶどう酒事件のあらまし「三重県の山間部をのどかに流れる名張川の上流、奈良県との県境にある小さな村落ー名張市葛尾。谷あいの一本道に沿うように、二十五戸の農家が点在し、ほぼその中心の小高い丘にポツンと建つ「蔵福寺」は、村人たちが公民館として使う無住の寺である。1961年(昭和36年)3月28日、夜8時から公民館で開かれていた村の生活改善クラブ「三奈の会」は、総会を終えて懇親会に移った。男たちには清酒が、女たちにはぶどう酒(白ぶどう酒であったそうです)がふるまわれ、32人が参加者たちは和やかに祝杯を挙げた。そして事件は起きた!突然女たちがもがき苦しみだしたのだ!驚いた男たちは遠方から医師を呼んだが、その甲斐もなく5人が死亡、12人が中毒症状を起こしていた。女たちが飲んだぶどう酒に農薬・「テップ剤」が混入されていたことが、検査の結果明らかになった。いったいだれがこんな事を・・・!?静かな村をいきなり襲った大量毒殺事件は村人をパニックに陥れ、世間をも恐怖させた。一刻も早く犯人を!捜査の行方はマスコミの注視の的となった。「村人の中に犯人がいる」そう断定した警察は事件当日ぶどう酒の購入・運搬に関与した三人の村人を重要参考人とした。とりわけ、死亡した五人の女性の中に妻と愛人がいた奥西勝さん(当時35歳)は、「三角関係の清算」という動機があるとして、警察から厳しい追及を受けた。勝さんは否定し続けた。しかし、事件直後から連日ジープで連行されての長時間の取り調べ、さらに自宅にも警察官が泊まり込み、就寝から排便にいたるまで監視されるという中で、ついに勝さんは嘘の自白をさせられてしまう。「妻と愛人を殺すため、公民館で一人になった隙に、自宅から用意してきた農薬・ニッカリンTを混入した」と。勝さんは起訴された。しかし、勝さんは起訴直前に自白を撤回し、以後一貫して無実を主張している。」。私も命があるかぎり頑張ります。「殺人・殺人未遂罪」で起訴された奥西勝さん(当時35歳)は、裁判で一貫して「無実」を訴えました。一審・津地裁は詳細な事実調べの結果、勝さんの主張を認め無罪を言い渡しました。しかし検察官が控訴。二審・名古屋高裁は勝さんの犯行と認定し、一転死刑判決(過去に例がないそうです)を下したのです!勝さんは最高裁へ上告したものの棄却され、1972年(昭和47年)に死刑が確定してしまったのです。以後今日に至るまで、勝さんは獄中から裁判のやり直しを求め続けています!(奥西勝さんを死刑台から取り戻す全国ネットワーク)のりーフレットより。まだ先がありますので、本日はここまでにしておきます。(写真は、朽木・てんくう温泉と名物のの品々です)

ちょっとローカルな話を。
2010/11/15

昨日は、日曜日と言うのに見たいテレビがなく偶然つけた「びわこ放送」で高校ラグビーの滋賀大会決勝戦を放送していました。ここ4年ほどは、新進の「光泉学園」が元日本代表の薬師寺監督の指導で急速に力をつけてきました。かつての花園の常連である「八幡工業高校」が5年ぶりの雪辱なるかとの試合でした。結果は、八幡工高22−5光泉学園で八幡工高が5年ぶりに花園への切符を手に入れました。試合内容としては、両チームともミスが多くまだまだの感じはしましたが、「へたくそ」なりの面白さはありました。滋賀県では予選に出場するチームが8校しかなく、3試合目が決勝戦となりますので、レベルアップが必要です。最近のラグビー事情としてはこれが現実で、どこでも15人のメンバーが揃わないと聞いております。これからは、ラグビーシーズンの到来で、大学ラグビーも上位対戦が増え、好試合が期待できるので楽しみです。ただ、我が愛する「同志社」が今年は「からしき弱く」ちょっと寂しい気がします。さて、今日の安曇川は、朝から「晴れてるのに雨が降り」と言った状態で「高島しぐれ」の時期になりました。きっと、大津市あたりは快晴なのに、「ここら辺は雨ですね」と遊びに来た人に言われる時期になりました。合い言葉は「弁当忘れても、傘忘れるな」で、「高島しぐれ」が収まる頃には「白いものが舞う」季節に入ります。(写真は、秋深まる小浜港の光景です)

もう1週間が過ぎ去りました。
2010/11/11

10日は、障害のある長女が施設から3週間ぶりに帰省して来たので、一番好きなプールとお風呂に入るため敦賀市にある「リラ・ポート」に行きました。いつもなら、休憩も兼ねて「鞠山海つり公園」に立ち寄るのですが、急に天候が悪くなり雨が降り出し、「お天気女」の長女には珍しい事でした。「おかしいな。安曇川は晴天だったのに、こんなに雨が降るなんて」「今日は、雨女の嫁さんの勝ちかな?」なんて車内で話していました。最近、長女も少し飽きてきてプールに30分も持てばいい方で、好きなお風呂でも40分が限度になりつつあり、両方で2時間弱で済んでしまいます。「リラ・ポート」を出ると、ちょうど12時でしたので、大好きな「回転寿司」に行きました。寿司を食べるより、「唐揚げ」「ラーメン」「ケーキ」「ポテトフライ」「チョコアイス」と決まったように食べます。時々「軍艦巻き」の「納豆」や「エビフライ」は定番になっていて、あまり「握りもの」は好きではないようです。さて、まだ時間が早いのですが、取りあえず若狭町の「梅」を求めて国道27号線を西に向かって走ります。ここでの長女は、毎回「梅せんべい」さえ獲得すると、さっさと車に乗り込んでしまいます。ここからは、国道162号線を経由して海沿いを走りますが、風が強く白波が打ち寄せていて「今日は、誰も釣りをしていないなあ」と嫁さんがつぶやいていました。30分ほどで小浜市内に入りましたが、やはり漁港では釣り人がなく「がらん」としていて海が寂しそうでした。午後3時過ぎと時間が早いので「もう1回、お風呂に入ろうか?」と提案しましたが、あっさりと却下されてしまいました。「たまには、早く帰って休憩するか?」と言うことで、午後4時過ぎには安曇川に戻って来ました。夕食前に外に出て北の空を見ると、「しぐれ雲」が広がっていて「もう冬が、そこまで来ている」と言っている様でした。(写真は、北に広がるしぐれ雲と夕焼けに染まる南の雲です)

祭日の定休日。
2010/11/04

普段は定休日の水曜日が祭日になる場合、翌日に変更するのですが昨日の「文化の日」は、珍しく休業しました。親戚のおばさんが入院しているので、一度はお見舞いにと考えていて、嫁さんに「早くしないと退院しはるで!」と背中を押されました。病院は、奈良県・高の原ですので近鉄・京都線でも行けたのですがお見舞いのお花や、何やら手荷物が多いので車で行く事にしました。安曇川を出発したのが午前10時だったので、順調に行けば午後0時頃には到着するはずでした。ところが、「湖西道路」に入り「真野インター」辺りから渋滞が始まり、「雄琴インター」ではほぼ動かないという「どなおなってんねん」状態になりました。挙げ句の果て「唐崎インター」で「事故発生」の掲示があり一般道に下ろされました。「祭日はこれやから出たくないねん!」とぼやきましたが、もはや「あとの祭り」です。名神・京都東から京都南までは順調に進みましたが、名神高速を下りて枚方バイパスに乗った時は、すでにお昼近くになっていました。「混雑したらいややから、お昼も早いめに摂ろう」と提案し「この先に、かっぱ寿司があるはずや」ということで入店しました。入った時は空席が目立ちましたが、出る時はほぼ満席で「この作戦」は成功しました。(そんな、たいそうな)さて、国道24号線から「京奈和道」を走る事30分、予定よりかなり遅れって午後1時30分に到着しました。お見舞いが終わり、病院を出たのは午後2時30分になっていましたが、「帰りは京滋バイパスから草津に出よう」「ついでに、建築中の息子の家を見て行くか」との結論になりました。草津市は高島市と違い、続々と家が建築中で活気は違います。「まるで、夢みたいやな」「この勢いの違いは何だろう」「高齢化が進み衰退しつつある町と若者の仕事があり人口が増加する町の違いやね」と思いました。「秋の日のつるべ落とし」ではないですが、午後5時になっていて急いで帰宅しないとと思いましたが、嫁さんが「今日は、温泉に寄らないの」との質問に、帰路にある「比良とぴあ」に立ち寄りました。車の置ける場所が無く「これは、相当の混雑やで」と覚悟を決めて入りました。館内は「芋の子を洗う」状態で、ゆっくりと楽しむなどという事など出来ず早々と風呂から上がりました。本日の結論は、「休みの日は、出掛けずに家でじっとしていろ」という事でしょうか?(写真は、趣味で作られている手まりの数々です)

10月も終わりですね。
2010/10/31

「「きょう100歳の入所者が亡くなりました」。全国に13あるハンセン病国立療養所の一つ、多摩全生園(東京都東村山市)の取材で最初に伝えられたことです。ハンセン病の国内発症者はもういません。仮に発症しても薬で、顔や手足に後遺症を残さず完治します。療養所にいるのは「元患者」の人々。高齢化し入所者は年々減っています。○・・・医療・介護の場となった療養所。豊かな緑、平屋の質素な住居、納骨堂、小さなお寺や教会ー時間が穏やかにゆっくりと流れていくように感じます。しかし、かつて患者を強制隔離し、家族との関係を断つため改名させ、子孫を残さないため断種を行い、過酷な作業を強いてきた場所でもあります。隔離政策は1996年まで続きました。元患者は療養所で生きていくしかなくなりました。○・・・全生園が地域に開かれ保育所が誘致されることになりました。全生園の入所者で全国ハンセン病療養所入所者協議会の神美知宏会長(76)は、目を閉じるようにして今回の決定の評価、国のハンセン病問題への対応の遅れを理路整然、よどみなく話されました。○・・・最後は雑談風になりました。青春の思い出、さまざまな人を束ねる運動の難しさ。そして−。「入所者は、人生の最期ににせめて自分が生まれたふるさとを一目見たいと思っている。でもそれさえ許されない・・・。家族は『帰っておいで』とは言わない。私たちは死ぬことによって家族を救えるんです」ー神さんの目が赤く染まっていました。」(26日付けしんぶん赤旗「まど」より)私自身、ハンセン病の事は詳しく知りませんでしたが、映画「エレファントマン」が多分そなのではないかと思っています。それにしても、世界的にはもっと早く治療法が確立していたでしょから政府の責任は重大ですね。さて、早いもので10月も終わろうとしていて、カレンダーも残すところ二枚になりました。(写真は、郡上八幡城内の、貝あわせと一豊の妻、千代の名文句です)

店長の日帰り旅行C。
2010/10/28

郡上八幡から、再び東海・北陸自動車道に入り岐阜県・白鳥(しらとり)インターに向かって北上しました。さらに、白鳥で高速道路を下り国道158号線で九頭竜湖まで走りました。この国道158号線は、その昔織田家が福井から尾張に向かう時に利用したと伝えられています。現在は、別名恐竜街道と呼ばれているそうで、それは国道の周辺で恐竜の化石が相次いで発見されたからでしょう。この道を利用するのは、今回で3回目になり、一度は飛騨・高山の帰路に、そしてもう一度は、飛騨・白川郷の帰路に利用しました。この時期までなら利用するのも良いですが、真冬になると豪雪地帯なのであまりお勧め出来ません。JR越美北線の終着駅の九頭竜湖駅が「道の駅くずりゅう」になっていて、取りあえず福井県まで戻って来たので一息入れました。時計はすでに午後4時過ぎになっていましたので、日没までに帰宅するのは断念しました。「そう言えば、この近くに温泉があったな?」「こちらからだと国道の右側にあったはずや」そんな話をしていると、「平成の湯」の看板が見えて来ました。「遅くなったついでや。入っていくか?」と言うことで入浴することにしました。「平成の湯」は、山の斜面にあるこじんまりとした温泉でしたが、なかなか良い温泉でしたし、入浴料も500円と安く、おまけに障害者割引で長女は半額でした。入浴後、「そう言えば、ここは大野市になるので熊が出てきた所やな」「さっきもそれが気になって、ゆっくり露天風呂に入れなかった」と嫁さんが話していました。日も暮れて、真っ暗になった頃福井市内にたどり着き、北陸自動車道に乗り、ひたすら敦賀市内に向けてスピードを上げて走りました。帰宅したのは午後7時でしたから、午前8時に出掛けてから11時間近くのドライブになり、本日の走行距離は、実に415qになっていました。(写真は、道の駅くずりゅうの恐竜と平成の湯の外観です)

店長の日帰り旅行B。
2010/10/26

揖斐川町を後にして、ひとまず岐阜市内を目指しましたがちょうどお昼時になっていましたので、高速道路に入る前に食事を摂ることにしました。お昼はよどのことが無い限り「回転寿司」と決まっていて、今回はたまたま見つけた「富山・新鮮な魚」と書かれた店に決めました。障害のある長女は、あのベルトと上に乗ってくる「お寿司以外のもの」に興味があり、ケーキやプリン、それに鶏の唐揚げが大好物です。昼食も済ませ「東海・北陸道自動車道」から郡上八幡まで、80qを約1時間で到着しました。本当はゆっくりと街を散策したかったのですが時間が無く、とりあえず「郡上八幡城」に行く事にしました。「戦国時代末期の永禄2年(1559年)、遠藤盛数が八幡山の上に砦を築いたことが郡上八幡城の起源である。遠藤盛数が郡上八幡城を築くまでは、郡上一円は東(とう)氏によって支配されていた。東氏は、郡上八幡を挟んで反対側にある東殿山(とうどやま)に東殿山城を構えていたが、1559年(永禄2年)、遠藤盛数によって滅ぼされた。遠藤氏は東殿山城を奪い、郡上一円を支配したものの、この城を好まず、東殿山城を攻撃したときに陣営を張った八幡山に城を築いた。なお現在の天守は、大垣城(当時)を参考に昭和8年(1933年)に造られた。模擬天守としては全国的にも珍しい木造。石垣が岐阜県史跡に、天守閣が郡上八幡市有形文化財に指定されている。(パンフレットより)車で山頂の城の入り口まで行けるのですが、この道が狭くて、崖沿いなのでちょっとした冒険気分になりました。ここも平日なのに高齢者が列をなして、城の中の階段を登っていましたが中には断念する人もありました。「郡上八幡城から見おろすと町は魚の形をしている」そうですが、自分では確認出来ませんでした。ところで、城の入り口に、「山内一豊と妻千代」の像がありましたが、なんでも千代が郡上八幡の出身だと書かれていました。「あれ〜っ、千代は滋賀県・近江町の出身と聞いていたけどな?」「もっとも、日本の歴史はいいかげんで、宮本武蔵や佐々木小次郎など日本全国に生まれたところがあるものな」と自分で納得していました。知らぬ間に時刻が進み、すでに午後3時になっていましたので慌てて車に戻りました。今度来るときは、ゆっくりと泊まりがけで来たいなと思い、郡上八幡を後にしました。(写真は、郡上八幡城と天守閣から眺めた町並みです)

店長の日帰り旅行A。
2010/10/24

今回のドライブほど下調べもせずに飛び出してきましたので揖斐川町に何があるかも知りませんでした。国道を走っていると「谷汲山」の案内表示があちらこちらで見かけましたので、とりあえず行ってみることにしました。「1.200年の歴史を誇る美濃の名刹」「巡礼の終着駅」西国三十三番満願霊場「谷汲さんの愛称で親しまれる当山は正式には「谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)といいます。豊然上人によって798年(延暦十七年)にて草創されてより醍醐天皇、朱雀天皇、花山法皇、後白河法皇を始めとする皇室、朝廷から帰依厚く、いにしえより観音信仰の霊験あらたな美濃の名刹として1200年に渡って絶え間ない信仰を集めてきました。また当山は日本最古の観音霊場である「西国三十三観音霊場」の第三十三番札所で結願・満願霊場としても知られ、春には桜、秋には紅葉の名所として賑わいをみせています。」(パンフレットより)なるほど、本殿までに長い門前町があり土産物店やお食事処がひしめいていました。参拝する人々も多く(ほとんどが高齢者ですが)平日にもかかわらず、賑やかでした。残念ながら、紅葉にはほど遠く、まだ青々とした紅葉でした。恥ずかしい話どこの誰かとは言いませんが、お寺なのに「柏手」を打つ人もいました。結局、私たちは他のお寺は回らずに、終着点に来たことになりますが、これでも願いが叶うでしょうか?参拝が終わり、「さて、これからどこに行こうか?」と話すと「郡上八幡まで、1時間ほどで行けるそうよ」と嫁さんがカーナビ見ながら言うので、ついついその気になりましたが、これが大きな間違いでした。(写真は、谷汲山華厳寺に参拝される人々とまだ青々とした紅葉です)

店長の日帰り旅行@。
2010/10/21

みなさんもご存じでしょうが、滋賀県は北に福井県と接し、東は岐阜県と接し、南は三重県と接しています。この中で、岐阜県と接している国道は303号線しかありませが、まだ一度も通ったことが無く20日(水)の休みを利用して出かけてみました。国道303号線は、福井県・若狭町(旧上中町)から滋賀県・今津町で国道161号線と合流し、マキノ町から再び国道303号線となり、長浜市(旧木之本町)から山間部を抜けて、岐阜県・揖斐川町に達します。かなり険しい道が続くのかと思っていたら、以外と整備された走りやすい道路で、対向車も追尾車も少なく快適なドライブでした。当たり前のことですが、県境を越えるまでは滋賀県・木之本町になるのですが、こんな山奥の集落まであるとは知りませんでした。嫁さんの解説によると「前回の、長浜市議選ではここまで応援に来たわ」「道が良くなったのは、関西電力がダム建設による協力として整備してくれたそうです」「そのダムは現在、見直しが迫られているそうでどうなるかな?」と話していました。やがて岐阜県側に入り、「道の駅さかうち」は定休日でしたがトイレ休憩も含めて写真を撮りました。この辺りも雪深いだろうし、その上合併で町役場などが無くなりいかにも寂れた風情でした。岐阜県側に入った途端に交通量も所々に増え、ようやく国道らしくなってきました。こちら側には、すでにダムが完成していて、稼働しているようでした。木之本から56qの道のりを1時間30分ほどで、目的の揖斐川町に到着しました。(写真は、道の駅さかうちとその周辺の風景です)

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