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私の回顧録H。
2011/10/21

自宅のある城東区・関目からは、阪神電車で通っていましたが、ほとんど毎日ほど神戸製鋼のラグビー部の選手と同乗する事がありました。中には、テレビや花園で見た顔の選手もいて、唯一の楽しみでもありました。さて、営業のまったく経験が無いので先輩営業マンに、「営業のノウハウを教えて下さい」とお願いしたら「そんなもの、身をもって覚えるしかないし、私も人に教えるほど自信がない」と言われてしまいました。スタッフが6名しかいない小さな営業所でしたので、電話注文の受付や発送の梱包と雑用の合間に営業に出かけました。ある新年など、朝から電話が鳴り止まず昼食の摂る間もなく、一階にある「吉野屋の牛丼」で5日間も過ごしました。来社するメガネ店から「おせち料理に飽きたのかいな?」と言われ、「いえ、牛丼に飽きてます」と答えておきました。残念ながら、営業では数字が上がりませんでしたが、立ち寄ると「コーヒーを注文してくれる」お店は増えました。この頃、また「弱視眼鏡」(視力が0.1以下)の販売も手がけ、「盲学校」や中途失明者の「ライトハウス」などにも行きました。今まで本など読めなかった児童が、本を読めるようになる感動の出会いもありました。ライトハウスでは、社会的地位のある銀行の支店長や大手商社の部課長級の方が、「突発性緑内障」で、失明され明日の生活さえままならず、積極的に弱視眼鏡を試される事は極めてまれでした。この「弱視眼鏡」に関わって、後に開業した時に大変役立ち、「他所の店では断られたけど、何とかならないか?」と言われ、弱視眼鏡の原理で新聞が読めるようになった方が数人おられます。この間、訳あって自宅が安曇川に引っ越すことになり、毎日片道が2時間30分の通勤を強いられ、週に1〜2日は帰宅すらままならなくなり、どこかで「退職」の気持ちが働いていました。ところで、東京での笑い話の二つ目は、熊本出身の同僚が、「有楽町に「赤ひょうたん」(後に関西でもお目見えしました)と言う美味しい洋食屋さんがあるらしいから行かないか?」と誘われました。早速出かけて、「カニクリームコロッケ」を注文しましたが、出て来たお皿を見てびっくりしました。コロッケは隅の方にあるだけで、てんこ盛りの野菜のサラダが出て来ました。「俺らは家畜やないぞう!」「こんなに野菜が食べられるか!」と店内を見回すと女性客ばかりで、男性客は自分達だけでした。それでも不思議な事に、何度か足を運ぶうちに慣れて来ました。大阪に戻ってから、阪急三番街に出来ましたし、神戸サンチカなどににもありましたが、野菜サラダの量は減っていて、あの有楽町の時の事が懐かしく感じました。(写真は、安曇川町の旧県立農業試験場に咲く、コスモスの花です)

私の回顧録G。
2011/10/18

加工センターに移籍して、毎日がメガネとの格闘になるのですが、改めて自分の不器用さに気付かされる結果になりました。メガネは繊細な物で、微妙な力加減が必要ですが、それがなかなか身につかず仕事が終わってから、自宅近くの関目にあるメガネ店に研修のため毎日ほどお世話になりました。メガネ店の社長が、「毎日、よく頑張るね」と言われ、「人一倍不器用なので、人一倍練習しなくては行けませんので」と答えておきました。1年目は、「メガネの組立」と言ってばらばらの部品を組立て、一本の完成品を作る仕事でした。当時は、まだまだセル枠が多く、ヤスリをかけた後、「バフロウ」で磨くのですが手先が当たり指先の指紋がなくなる位でした。3年目からは、「ロウ付け」作業(溶接)が主な仕事になり、今度は火傷が絶えず毎日ほどバンドエイドを指先に巻いていました。5年目になって、ようやく「サングラス」なら作っても良いと言われ、飛び上がるような思いでした。それでもまだ、度付きのメガネは作らせて貰えず、先輩が作るのを横目で眺めて、技術を盗もうと必死でした。その頃、「眼鏡士」という認定試験を受験する事になり、学科と実技の勉強が始まりました。学科は、自宅に帰ってから勉強するのですが、高校以来の事ですから「頭が相当固くなり」思うように記憶出来ませんでした。実技は、また近所のメガネ店にお世話になり、ひたすら手作業だけでのメガネを作りました。会社で過去に試験に落ちた者がおらず、万が一不合格なら会社は辞職する覚悟で臨みました。幸い合格に至りましたが、あの時の勉強が今とても役に立ったなと思っています。その後、ようやく度付きのメガネも作って良いとの許しが出ましたが、すでに7年の歳月が経とうとしていました。8年目のある日、所長に呼ばれ「神戸営業所」に転勤と営業職への移動が伝えられました。ところで、東京での笑い話を一つ披露したいと思います。慶応大学のある港区・三田の前に、「東宝パーラー」と言うお店がありました。そこの売り物は「ピザ」が美味しいと言われていて、熊本出身の同僚と二人で入店し注文しました。「ピザ」なるものが出てきて、「これやったら、お好み焼きの西洋版やな」「それにしても、小さいケチャップ瓶やな。東京の人間はせこいな!」とまだ「タバスコ」を知らず、ほとんど一本を使い切ってしまいました。「こんな辛い物、東京の人間は好きなのかな?」「もう、私は二度と来ないわ」「ほんまやな!これやったお好み焼きの方が美味しいで」と言って店を後にしました。後日、先輩女性に誘われて、同じ店に出向きましたが、その話をして大笑いされてしまいました。さて、先日の日曜日に日本共産党の後援会の集いがありましたが、その場所が高島町・萩の浜で「憩いの里湖西」と言う場所でした。28年も住んでいるのに、「知らんな〜」と言う所でした。聞くところによると、「一般人」にはお貸ししないそうですが、「じゃあ、我々は特殊人ですか?」と思わず聞いてしまいました。(写真は、憩いの里湖西から見た琵琶湖と、バーベキューを楽しむ後援会員と、色づきだした木々です)

私の回顧録F。
2011/10/14

旭カールツアィスに入社して2年ほどが経った頃、先輩であるS氏と上手く行かず(誰とも上手く行かない人でした)、もうこの会社を辞めようかと迷っていました。そんな頃、相変わらずメガネ店に訪問して眼鏡機器のメンテナスを続けていましたが、ある時、メガネ店の社長さんから、「白内障や緑内障の事を教えて欲しい」と言われ、「私は機械の専門家でメガネや眼の事は知らないのです」と答えました。また、ある時は、「忙しいから、メガネの製作を手伝って欲しい」とも言われましたが、「残念ながら、お手伝いすろ技術が私にないのです」と答えました。「なんや〜。何も知らないのやね」と言われ、少しショックでした。そんな折り、加工センターの係長が「今晩、飲みに行こうか?」と誘われお付き合いする事になりました。場所は、係長の家の近くで京阪・旧守口駅から徒歩5分ほどの大阪城(だいはんじょう)と言うお店でした。(土手焼きが絶品でしたが、今もあるのでしょうか?)入社してから知った事ですが、この係長は同じ城東工業の先輩になり、日頃から気にかけていて下さった様です。「お前、良かったらうちの課に来ないか?」と言われ、人間関係にも少し疲れ、その上メガネの知識も学びたいと思い、「はい!お願いします」と答えました。今度こそ電機とはまったく関係のない世界に飛び込んだ事になり、まさに「職人の世界」を体験する事になりました。毎朝、誰よりも早く出社し、眼鏡機器の点検・清掃をしながら「モーニングコーヒー」を配るのです。最初は、仕事を与えて貰えず、ただひたすら先輩の仕事ぶりを横で見て覚える事でした。お昼になると、昼食の出前の注文を聞いたり、お茶を配ったりと「まかない係」の様でした。会社の終業時には、朝と同じく眼鏡機器の点検・清掃を終えると、一番最後に会社から出て行く事が当たり前の生活でした。旭カールツアィスは、昭和48年に入社した時から、完全週休二日制になっていましたので、土日・祝日はお休みでした。世間では、お役所が土曜日半ドンという時期でしたので、近所の噂は、「あの人は何している人?」「公務員と違う?」と話されました。当時は城東区・関目の公団住宅に住んでいましたから、夏の日などは帰ってから子どもと散歩を楽しめるほどでした。(写真は、小浜港で小アジを釣る人々と、小浜港に注ぎ込む北川の風景と、小浜港の全景です)

私の回顧録E。
2011/10/11

メガネ業界のことなどまったく分からず、メガネの知識もまったく無く、いったい私は何をするのだろうと半分以上は疑心暗鬼でした。配属されたのは、眼鏡機器事業部と言うお堅い名前の職場でしたが、要はメガネ店で使用する機器で、一つはレンズを削って加工する玉擦機(たますりき)と、もう一つは電動で動く視力表で(ポラテストと呼ばれていました)の納品とメエンテナスでした。当時の玉擦機などは、機械的な動きの部分が多く電気の知識など不要に等しい物でしたので、あまり機械的な事の知識が無く覚えるのに苦労しました。当時は東京本社と大阪営業所しか無かったので、関西はもちろん、中国、四国、九州地方までカバーしていました。私は主に、中国、四国地方を担当しましたが、一週間の半分は地方のメガネ店に出張しておりました。友人には、「あちらこちらに行けて良いね」と言われましたが、「そんなもん、仕事やからめったに名所など行く間などないわ」と答えましたが、金曜日の出張などになると翌日が休みですので、四国では金比羅さんや屋島、大歩危小歩危など、鳥取では砂丘や大山、島根では日御碕や出雲大社などに行きました。おかげで色々な思い出が出来ましたが、出張から戻り精算すると、いつも決まって大赤字になっていました。当時は地方に出張すると、メガネ店の社長が「今晩は、店を閉めたら良いところに連れて行ってあげる」と言われ、ある時は高知の繁華街を、ある時は高松の繁華街を、またある時は和歌山の繁華街を深夜までお付き合いしました。松山では、「明日休みやろう?船で釣りに行こう」と言われ背広姿で釣りをした事もありました。また、「これはご当地のお酒や。持って帰ってや」と一升瓶を2本持たされ、あまりに重いので帰りの列車内で他の乗客と飲み、さながら宴会状態になった事もあります。またある店では「今日は何の世話も出来なかったので、これで食事でもして下さい」とポチ袋を渡され、後で開けてみると1万円札が入っていて上司と相談したら「そんなもん、黙って貰っとけ」と言われました。私の税込みの給料が5万円の時代ですから、いかに大金か想像がつくでしょう。世間ではオイルショックとかで、何故かトイレットペーパーの買い占めが行われている時、眼鏡業界は「この世の春」と思えるくらい景気が良かった時代でした。(写真は、敦賀・きらめき温泉「りラ・ポートと、そこから眺めた敦賀市内と、どことなく秋めいた背後の雑木林です)

私の回顧録D。
2011/10/08

2年ぶりに東京から戻って来ましたが、失業者となりましたので新たな就職先を見つける為に毎日就活(当時は、そんな呼び方はなかったですが)をしていました。当時はまだ景気も良く、採用試験を受ける度に交通費とわずかな日当が会社から支払われて、お小遣いに困る事はありませんでした。ある時、母校の進路指導の先生から連絡があり、「「日本信号機」という会社が、君を採用したいと言って来てるよ」と言われ、後日担当者から電話がありました。「是非来て欲しいけど、どうでしょうか?」とのお話でしたが、「研修の為、6ヶ月ほど東京に行って欲しい」との事で辞退する事にしました。「今さら、再び東京に行けるか!」との思いが、そう決断させました。(若かったんですね)それから、新聞の求人欄(今ではありませんが)を見ては面接試験に行きましたが、その中で「冨士ゼロックス」と「東京電機」に合格しました。「冨士ゼロックス」は、「全国に転勤してもらうつもりです。」の一言で辞退しましたし、「東京電機」は、東芝の子会社とのお話で、「それなら親会社を受けるわ」と辞退しました。(再び、若かったんですね)そんな中で、奇妙な広告があり、電気技術者を募集しているとの事でしたが、いったいこの会社は何を販売しているのか見当も付きませんでした。社名が「旭カールツアィス」?と世間に知られて無くて、面接に行って初めて眼鏡業界だと知りました。その時は戸惑いましたが、帰宅して近所のカメラ屋さんと銭湯で話していると、「あんた!えらいところに内定もらったんやね。」と言われ、それが決心となりました。後で知ったのですが、「カールツアィス」は世界で一番の光学メーカーで「京大・野辺山天文台」や「四つ橋のプラネタリュム」や「カメラのコンタックス」ブランドでその道の通には憧れの商品だったそうです。ところで、東京の思い出の中で、「山手線で緒方拳に会った」とか「中央線で小柳ルミ子に会った」とか「アメリカの大統領のカーター氏を大井町で見かけた」とかありました。関西ではなかなかお目にかかれない有名人が、身近の感じるのも日本の中心だからでしょうね。(写真は、敦賀・鞠山海つり公園ですが、釣り人が少なく釣果は芳しくないようです)

私の回顧録C。
2011/10/04

東京での社会人としての生活は、たった2年間でしたが当時の私には5年以上の期間に感じられ、朝早くから夜遅くまでの仕事に追われ一日がとても長かった様な気がします。心のどこかで「そろそり潮時かな」と思いながら通勤していたような気がしますが、なかなか上司に伝えることが出来ず悶々としていました。いよいよ覚悟が出来て、上司に伝えると「どうしてだ?」と言われましたが、「東京の生活に飽きた」と伝えました。本当はその前に課長が家を成田に建てたとお聞きして、お祝いの品を届けましたが、当時の成田からは通勤に2時間以上もかかる様でした。「東京では、課長ですらこんな所にしか家を建てられないのか?」と言う絶望感もありました。その後、成田には国際空港が出来て随分と便利になったようですが、当時は電化さえされていなくて、ディーゼルカー(気動車)だった記憶があります。さて、いざ辞めるとなると思い出を作りたいと江ノ島に頻繁に出かけましたが、今でも心に焼き付いているのは、「夕暮れの江ノ島を材木座海岸から見た光景で、遠くに富士山のシルエットが浮かびました。」「あ〜あ、この景色も見納めやな」と考えると感無量の思いでした。いよいよ、大阪に帰る時、何故だか各駅停車で帰りたい思いに駆られ、仕事の仲間に見送られ品川駅から朝、昼、夜と駅弁を食べ一日がかりとなりました。今でも、2〜3年に一度、上京する機会に恵まれますが「東京タワー」を見ると「久しぶりに東京に来たな」と、どこか感傷的になってしまいます。さて、来年も我が阪神タイガースは真弓監督で行くそうですが、梨田監督や落合監督に代わってもらえれば嬉しいのですが、思うようには行かないものですね。(写真は、近所の畦道に咲いた彼岸花と、店の前で行われた電気工事と、雲一つ無い今朝の安曇川の空です)

私の回顧録B。
2011/09/29

東京で生活してみて(住んでいたのは横浜ですが)驚いた事が幾つかありますがその一つに「値引きはしない」と言う事です。個人商店でも同じで、靴屋では一足5000円の値段の物を二足まとめ買いをしても、5000円×2で10000円になります。「少しは勉強してよ」と尋ねても、その意味が伝わらず「値引きは出来ないけど、靴クリームはサービスします」との返事が返って来ます。また、違うお店でスーツを二着誂えても値引きはなく持ち運び用のハンガーが付いて来るだけでした。当時の東京で唯一値引きがされていたのは、上野・御徒町にある「赤札堂」だけで大変珍しい事でした。また、寮生活の中で朝食に納豆が毎日ほど出て来るのには閉口しました。ある日は納豆がそのまま出て来たり、またある日は味噌汁の具であったり、またある日は卵焼きに挟んであったりしました。いよいよ堪忍袋の緒が切れて寮長に抗議に行き、「関西の出身者もいるので、メニューを考慮して欲しい」「出来れば選択出来るようにして欲しい」と伝えました。栄養士さんとも相談して、この問題は解決しましたが関西の出身者には大変喜ばれました。また、これが縁となり寮長とも気軽に接して頂き、後々は家族旅行にも参加させて頂けるようになりました。もう一つは料理の味の濃さですが、駅構内にある「立ち食いうどん」の店を利用しました所、うどんの残りが丼鉢から見えないとほどでした。しかし、慣れとは恐ろしいもので一年ほどして、帰省すると関西の味が薄く感じて醤油を注ぎ足すほどになっていました。大阪に戻ってから、「上野公園の近くの中華どんぶりが美味しかったので、もう一度食べたいな」と思い上京する機会に立ち寄りましたが、「こんな濃い味だったっけ?」と失望感が湧いて来ました。もう一つは、言葉の問題ですが、今のように「吉本興業」の番組があるわけでなく、大変面白がられて時々意思が伝わらない事もありました。きっと今なら何でもない事なのでしょうが一生懸命標準語で話すように努力はしました。さて、9月も残すところ一日となりましたが、あの猛暑だった夏が嘘のようですね。今年も残すところ三ヶ月となり、カレンダーの枚数も減って来ました。そう言えば、27年前の今日にこの店がオープンした事に先ほど気付きましたが、まあ今日までよく続いたものだと感心しております。(写真は、玄関先で見つけたカマキリと、浅井家三姉妹のイラスト付きのお土産と、栗東市にある道の駅「こんぜの里」です)

私の回顧録A。
2011/09/24

ある秋の日、品川事業所で課対抗のスポーツ大会があり、私もサッカーの試合に出場する事が決まりました。本当は、ラグビーが良かったのですが、そんな競技は無くやむえずの選択でした。血気盛んな頃だったので、相手の足をめがけてスライディングするものですから、度々今のは反則と違うのかとクレームがつきました。それなのに、その試合に勝ったのか負けたのかあまり記憶が定かでありませんが、久しぶりに運動をした満足感はありました。その後、体育館に移動してバスケットボールで遊んでいると、バスケット部の女子が試合を申し込んで来ました。「女に負けてたまるか!」と俄然ファイトが湧いて来ましたが、そこは素人の悲しさで惜敗となりました。私の所属していた海外技術部の先輩が、たまたまバスケット部の部長だったので、一緒に懇親会に参加しないかと誘われ喜んで参加しました。宴も盛り上がり、少し酔ったので外に出てみると、誰か女の子がブランコに乗っていました。少し話しかけると、昼間に戦ったバスケット部の女子のメンバーで、同期入社だったことが分かりました。あの夜に会っていなければと思うぐらいで、これが今の嫁さんになるとは、「縁は奇なもの」と実感しております。さて、22日は大阪・大東市まで墓参りに行って来ましたが、身内の方が先に来ていてお花がまだまだ綺麗でした。仕方なく、まわりのお墓で花がない所に生けて合掌して来ました。帰りは、国道163号線で木津川市に出て、「月ヶ瀬温泉」に立ち寄りました。〒630−2302 奈良市月ヶ瀬尾山2681番地 рO743−92−0388 休館日 第1・第3火曜日 営業時間 AM10時〜PM8時30分 入浴料金 大人600円 小人300円、電車で JR月ヶ瀬駅から10q 近鉄上野市駅から12q お車で 名阪国道五月橋・治田ICから4q 館内にはお食事処「久庵」や「ふれあい市場」が併設されていますので、新鮮な野菜が手に入ります。(写真は、月ヶ瀬温泉の全景と、ふれあい市場にあった大きなカボチャと、今年初めて見たイガ付きの栗の実です)

私の回顧録@。
2011/09/21

私の回顧録などと言うたいそうな題名になりましたが、要は人生の思い出話という事です。大阪府立城東工業高校・電子科(現城東工科高校)を優秀な成績で卒業した(本当の話です)私は、予期せぬ事に上京する羽目になり東京・虎ノ門にある沖電気工業・本店の海外事業部に配属されます。最初から、まあ2〜3年したら大阪に戻るつもりで入社しましたので、物見遊山の気分でした。色々な勉強のため沖電気・品川事業所で研修する事になり、最初は海外技術部という部署で海外向けの電話交換機の設計に携わりました。この部署は気楽な仕事で、コーヒーやタバコを吸いながら仕事をしても怒られる事はありませんでした。ところが、一旦どこかの国の工事が落札されると、にわかに様相が激変し毎晩残業の繰り返しで、徹夜もしばしば経験しました。一ヶ月で270時間を超える残業があり、休日には泥のように眠っていて気がつくと夕方だったと言う事もありました。当時、生活していた寮は横浜市・青葉台と言う所にあり、通勤は片道1時間20分程度かかりましたので、午前5時30分には起床して朝食後、想像を絶する満員電車に揺られての通勤でした。寮は300名を超える寮生が住んでいて、お互いの名前すら知らないのが当たり前でしたが、その中で数人の連中とは仲良くなりました。ある時、タバコを吸う寮生が「お前も吸え!」と渡されましたが、気分が悪くなるだけでした。また、年に何度か寮生との懇親会があり、「酒も飲めないのか?」と先輩から勧められ無理矢理飲んだことがありました。私がもし、寮生活の経験がなければ今でも酒もタバコもたしなんでいないと思っています。さて、1年間の設計部の後、製品検査の部署に配転され現物の研修が始まりました。ここの部署は社内ルールが厳しく、タバコは喫煙室でしか吸えませんし、コーヒーも一日2回ある休憩時間しか飲めませんでした。それでも、自分が設計した交換機が回ってくると、少しは感激するものがありました。後で聞いたことですが、先輩が3年前に現地に出向いた時、図面にあるサインを見て「君の設計した交換機は、今でも立派に働いているよ」と再会した時に言われて嬉しかった事が忘れられません。製品検査部に移ってからは、時間に余裕が出来て東京や横浜、鎌倉などに観光に出かけました。特に、一番気のあった同僚が横浜にいて、度々出かけて山下公園や外人墓地や港の見える丘公園、夕暮れの大桟橋や中華街の喧噪さは、テレビの番組で紹介されると今も懐かしく感じています。さて、明日は臨時休業でまた大阪まで、お彼岸の墓参りに出かける予定ですが今回は車での移動ですのでお酒は飲めそうにありません。(写真は、一日遅れで実施された安曇小学校の体育祭の様子です)

クモとよく似た生活。
2011/09/17

朝の散歩と思い近所を散歩していると大きなクモが巣を作り、ひたすら獲物が来るのを待っていました。どこにでもある、ありふれた光景ですがどこか自分の姿に似ていて苦笑しました。私の仕事であるメガネ店も、ある意味では「ひたすら待つ」と言うことになります。毎朝、午前9時に開店して獲物(私の場合はお客)待ち続け、午後8時の閉店まで獲物が来ないことも多々あります。そんな時の一日はとても長く感じられ、気持ちが折れそうになる事もあります。もちろんクモも私も色々な努力を重ねてはいるのですが、時には結果が伴わない事は仕方の無いことかもしれません。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の小説のように、クモも私の仲間として親しく?(どうしたら良いのかな?)付き合って行きたいと思います。今日は、市内の小学校の運動会が予定されていましたが、雨のため中止となりました。練習風景を見ていると、「AKB48」の「♪会いたかった〜,会いたかった、イェイ、君に」の音楽に合わせて、演技の復習をしていましたが、思わず「時代やね!」と声を出してしまいました。さて、明日は予定通り行われると良いのですが、運動場が雨で水浸しなので無理かもしれません。(写真は、壁に巣を作ったクモと、小川に巣を作ったクモと、今年も咲いた葛の花です)

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