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初めて「いとこ会」をしました。
2011/11/28

4月に、母親の兄が亡くなり49日の法事で誰からともなく「いとこ会」をしないかと声が上がり、それぞれの色々な都合ありましたが、何とか開催にこぎ着けました。場所は、京都駅前の居酒屋で「京都竹取物語」という個室が完備されていて、安心して飲めるのと言う事で決めました。聞く所によると、最近は個室があると予約が入るらしく、「個室流行」だそうです。この日も、20室ほどあるすべての個室が満室で色々なグループが盛り上がっていました。この日の京都は、観光客が多く駅周辺も大混雑で、身動きが取れない位で人混みに疲れました。宴会まで時間があったので、今まで何度か京都駅に降り立っているのですが、「JR伊勢丹」には入った事がありませんでした。関東の百貨店の商売はどうなのか「見聞」の為、最上階まで見て回りましたが、設備は整ってはいますが商品構成はあまり頂けなく感じました。肝心の「いとこ会」の参加者は7名で、「おっさん」ばかりの顔ぶれですが「葬式、法事」などで会うのと違い、楽しく過ごせました。小中学校の頃は、1年違えば少し遠慮があり、2年違えば雲の上の人で話したことも少なかったように思います。それが、60歳前後の今になったらどう言う分けかその年齢差が感じられなくなりました。古いアルバムの写真を見ながら、「あ〜っ、それ覚えているわ」「その時、俺もいたはずや」「あんたは、大阪万博でテンガロンハット買ったやろ」などと、話しがどんどん広がります。あ〜っと言う間に3時間の宴会時間が終わり、少し千鳥足になりながら外に出ました。店の前で「記念写真」を撮りましたが、なんと6枚も写したのにみんなピンボケでした。まだ時間も午後8時過ぎで、別れるには早いから「もう一軒行こう」と意見がまとまりましたが、行く店、行く店で満員ですと断られました。ようやく6軒目にして、「午後9時までですよ」と言われましたので、ビールとラーメンと餃子を注文しました。「ラーメンが美味しいな!」と話しながら、次回の幹事を決めて握手しながら別れました。「いとこ会」の幹事をさせてもらい、無事終わったせいか2〜3日は「ぼーっと」過ごしていましたが、今度は中学校のミニ・同窓会を引き受ける事になり、俄然元気が湧いて来ました。(写真は、いとこ会の様子と、伊勢丹から見えた大きなクリスマスツリーです)

和紙の里と余呉湖。
2011/11/24

手漉き和紙の実演が見られる和紙の里ですが、ここも数年まえに洪水になり壊滅的な打撃を受けたとニュースで見ました。あれから数年で、ほぼ元通りに再建され観光客もボチボチと見られるようになりました。前回来た時に、手漉きされているご主人と会話が弾み「うちの妹が堅田に嫁いどるねん」「だから、ちょくちょく滋賀県に行くで」「あんたも、やってみないか?そんない難しい事ではないで」と言う事で試してみると「なかなか筋が良いで。あんた俺の跡継ぎになってくれんか?」と言われましたが「もう少し若かったら良かったけど、もう勉強する時間がないわ」と丁重にお断りしました。今回もご主人が元気そうに手漉きをされている姿が見えましたが、声をかけるのは遠慮しておきました。まだ、午後2時前でしたが最近は日暮れが早いので、帰路につくことにしましたが国道365号線(通称北国街道)を利用して今庄から木之本へ出る事にしました。途中、余呉高原スキー場を抜ける難所の道路ですが紅葉が綺麗だったので、思わず車を止めて見入ってしまいました。これから冬になると積雪情報で必ず出てくる「余呉町・柳ヶ瀬」の集落を通り余呉湖の湖畔に到着しました。まだ、名物の「わかさぎ釣り」が始まっておらず、北から渡って来た水鳥がいるだけで淋しい風景でした。ここにも「天女」伝説があり、それらしい銅像が建っていましたが道から離れていたので断念し、国道8号線から西浅井町を経由してマキノ町から帰りました。(写真は、和紙の里と、余呉高原の紅葉と、静かな湖畔の余呉湖です)

「熊出没中注意」の看板。
2011/11/21

「ラポーゼかわだ」で昼食を済ませ、さてこれからどうしようかと思案していたら案内板に、ここから山中に1,6qの場所に「桃源清水」と言う湧き水があると書いてありました。ちょうどペットボトルも積んで来ましたので、どんな場所か知りませんが行ってみることにしました。道路はどんどん狭くなって来て、1台がやっと通れる幅しかありませんが、幸い対向車もなく10分ほどで到着しました。車を降りて真っ先に眼に入ったのが「熊出没中注意」の看板で、思わず辺りを見回しましたが、幸い近くにはいないようです。それでも落ち着かず、カーナビの音楽の音を大きくして、「人間が近くにいる」事を知らせる様にしました。すべてのペットボトルに湧水を汲むのに10分とはかからなかったと思いますが、何だか落ち着かなくそそくさと立ち去りました。「熊と出くわしたら背中を見せず、後ろずさりしないと襲われるそうやで」「でも実際に出くわしたら、そんな余裕など無いやろう」と車内で会話をしておりました。再び「ラポーゼかわだ」の前にたどり着いたら、向かいに「メガネ工場」の看板が出ていましたので、のぞいて見る事にしましたがメガネが並んでいるだけで人影はありませんでした。「こんな山奥でもメガネに関わる人がいるのやね」と半ば感心しておりました。この後は、何度か訪れている南越前町(旧南条町)の「和紙の里」を目指しました。さて、今日の安曇川は「高島時雨」で、ほぼ一日中雨が降り、最高気温が10℃位しか無く、この冬初めて、エアコン以外に石油ファンヒーターを使う事になりました。(写真は、誰もいない桃源清水の光景と、メガネ工場の看板が出ていたお店です)

漆器は高くて手が出ません。
2011/11/18

16日(水)は、2週間ぶりにお休みを頂き敦賀市方面に車で出かけましたが、今回はまだ一度も行っていない福井県内の温泉を一つ一つ無くして行こうと決めていました。福井市内に3軒、丸岡1軒、そして鯖江市に1軒ありましたが、今回は最も近い鯖江市に向かいました。途中国道8号線から「さざなみ街道」を走り、南越前町(旧河野村)に出ましたが、あちらこちらで「蟹解禁」の幟が出ていて活気付いている様でしたが、雄ガニが一匹3万円以上はするので庶民(貧乏人)には手が出ません。今週の18日(土)〜19日(日)にかけて、「越前カニ祭り」が行われるそうで、「カニの味噌汁」が無料で振る舞われるそうです。越前海岸に別れを告げて、一路鯖江市東部にある越前「うるしの里」会館に向かいました。「うるしの里」会館に来るのは今回で3〜4回目になりますが、旧館は何年か前の洪水で流され、新しい建物に生まれ変わっていました。漆塗りの品物は素晴らしいのですが、お椀5客が226000円では、とても手が出ず800円の箸を買い求めました。ここからさらに10分ほど山間に入った所に、今回入浴する「ラポーゼかわだ(河和田)」がありました。かわだ温泉は全国でも珍しい混合泉で、肌がすべすべになる「重曹泉」と動脈硬化防止に効能がある「芒硝泉(ぼうしょうせん)」が同時に含まれる日本でも数例しかないという珍しい温泉です。一人で露天風呂に入っていると、庭の向こうから熊でも出てきそうな雰囲気です。ラポーゼとはフランス語で、「一休みする」「やすらぐ」という意味だそうです。「ラポーゼかわだ」〒916−1235 福井県鯖江市上河内町19−37−2 рO778−65−0012 休館日 奇数月の第一火曜日 交通アクセス (自動車)北陸自動車道鯖江ICより約15分(10q) JR鯖江駅より約20分(12q) 入浴料大人500円でした。なお、館内には宿泊施設やレストランが整備されていて立派な施設です。サブタイトルに「鯖江市農林業体験実習館」と付いていて地元に食材を使った体験教室やバーベキューもあるそうです。私の入浴した感想は、何時までも体が暖かく、今まで行った温泉の中ではベスト3には入りそうです。ちょうどお昼だったので、レストランで日替わりメニューを頼んだら、「鶏の丼」と「ミニ刺身の盛り合わせ」と「ほうれん草のごま和え」と「味噌汁」と「お漬け物」が付いて980円で大満足でした。(写真は、漆塗りのエレベータの扉と、漆の里の案内板と、ラポーゼかわだの玄関です)

私の回顧録N総集偏。
2011/11/13

当初、お店をオープンした頃「いつまで営業しておられますか?」と聞かれ、「続けられる限り頑張ります」と答えましたが、きっと「催事で期限がある」と思われたようで、それくらい新しい店が出来ろのが珍しかったのでしょう。また、安曇川町には意外と「福井」姓が多く、「どこそこの福井さんの息子さんやな」と勝手に解釈され、あえて否定も肯定もしませんでした。考えられない事ですが、「白髭神社の夜店」で買ったメガネの修理を頼まれ、品物があまりにも粗悪品なのでご辞退申し上げた事もありました。最近では、「百均」で買われたメガネを直してくれと言われ、「百円かかりますよ」と答えても「かまへんわ」と言う人もあります。1987年(昭和62年)から、補聴器の販売を始めましたが、忘れる頃に来客があり聴力を測定したり説明したりしました。一年に2〜3台売れれば良い方で、しかも新機種などなく10年近くはずっと同じ商品でした。お年寄りが相手の商売ですから、すべての事に根気がいりました。2000年に入ると、パソコンで調整する機種が現れ、やむを得ずパソコンの操作を覚えるようになりました。今では毎年新製品が発表され、まるで携帯電話の販売のようでついて行くのがやっとの思いです。この頃から補聴器もかなり社会に浸透し、年に20〜30台と大幅に増加しました。まあ、本当に色々あった28年間でしたが長かった様で、あっと言う間の事だったような気がしております。くだらない話しを長々と書きましたがお許し下さいますようお願い申し上げます。ところで、連日タイの洪水のニュースが報道されていますが、メガネ業界は関係ないやろと思っていたらホヤメガネの工場がダメになったそうです。そのとばっちりで、他社に注文が殺到し納期遅れが出ています。朝からお客さんに、お詫びの電話をするのが日課になりました。国内では安く作れないからと、安易に海外に工場を移すのはいかがなものかと思います。(写真は、道の駅マキノ・追坂峠で見たツノナス(別名フォックスフェイス)と琵琶湖の遠景と色ずき始めた木々です)

私の回顧録M。
2011/11/09

私がメガネ店をオープンした1984年(昭和59年)頃は、都会から安曇川町に転入して来る住民はまだまだ少なく密かに「よそ者」と呼ばれていたようです。面と向かっては言われませんでしたが、お酒など入るとこそこそ話の中で聞こえている事がありました。少し腹が立つと「私の免許証を見てみろ。日本国籍と書いてあるやろう!」と言ったり、「あんたの息子も大阪で働いてるらしいけど、よそ者と言われてるか聞いてみろ!」などと反発していました。やがて10年が経った頃、そのような話しはほとんど聞かれなくなり「今度、商店街の会長してもらえんやろうか?」と言われ、「よそ者の私で良ければ、やらせてもらいます。」と答えましたが、安曇川の住民も随分と変化してきたなと思いました。商店街の活動では、今までの慣習を打ち破り「みんなで楽しい事をしょう」と思い、年に一回の親睦旅行を数回にしたり、忘年会、新年会を必ず開いたりしました。古参の役員から苦情が来ましたが、他の会員からはおおむね好評でした。その後も何度か役員を引き受けましたが、お互いの気心が分かり、メガネのお客としても来店下さるようになりました。さて、昨日の立冬から急に寒くなり、急遽暖房に切り替えましたが今日の最高気温も14℃しかありません。このまま寒くなるのか、それともまた暖かくなるのか最近の気候は想像がつきませんね。(写真は、刻々と変化する高島時雨の新旭・太田地区から西の方角、比良山系を撮影しました)

私の回顧録L。
2011/11/04

オープン当日に備え、新聞にチラシの折り込みもし安曇川駅前でチラシを配り、また校長先生の許可も得て安曇川高校や安曇川中学の校門でもチラシを手渡しました。今も忘れませんが、一番に来られたのは、近所の薬局のおばあちゃんで老眼鏡の購入ですので金額的にはわずかですが嬉しかったのを覚えています。もう一人は、向かいの本屋さんのおじいちゃんで遠近両用でしたので金額は上がりました。初日に二人も来てくれたと、晩御飯に乾杯したことが昨日の事のようですが、今はもうお二人とも亡くなられてましたがご葬儀には参列させて頂きました。よく考えたら、隣の人も向かいの人もまったく知らないし、地縁も血縁も無く同窓生や友人も無い中で良くやったなあと今になって思います。あまり田舎の生活が分かっておらず、「あそこのお嫁さんは、どこそこの娘さんや」また「あそこの次男は、どこそこに勤めているやろう」また「うちは、あそこのメガネ屋と濃い親戚になるけど、嫌いやから来たんや」などと言われました。今でこそ、横線と縦線が繋がり理解出来る様になりましたが、最初の頃は「ただ口を開けて、聞いているだけ」の状態でした。高島にも方言があり、その話し方が可笑しくまた時々理解出来ない単語もしばしばありました。今でも覚えているのは、「あにい」と言う単語で、「このおじさんのあにいなら、いったい幾つくらいになるのかな?」と思っていると、「自分の息子」の事だったのです。また、「このだらが!」と叱るように子どもに話しているのを聞くと、どうやら「馬鹿が!」と訳したら良いのだと分かりました。今になれば、通訳を必要とせず時々自分がその言葉を使っている事を指摘され、恥ずかしい思いをしたことがあります。さて、2日は伊吹山ドライブウェイに乗って、山頂を目指す予定でしたが連日の暖かさでまったく「紅葉がされていなく」入り口で引き返しました。その代わり、旧伊吹町(現米原市)にある「泉神社」と言う「日本名水百選」の湧き水を汲んで来ました。ここは、「瓜破の水」より有名なのか愛知や岐阜や三重の車で一杯で、しかも汲む量が半端でなく30分近く待たされました。飲んだ私の評価は、「瓜破の水」の方が美味しく思いますが、あまり宣伝して「瓜破の水」があの様になるのは、避けたいものです。(写真は、色々な表情を見せる伊吹山です)

私の回顧録K。
2011/11/01

今風で言うと就活もうまく行かず、いよいよ自分でメガネ店をしようかと言う風に決意が固まりました。そうなると店舗を探す事になりますが、最初は琵琶湖線と湖西線との別れる山科駅周辺から始めました。一日かけて徒歩で探しましたが、なかなか良い物件が見つからず、また見つかっても家賃が30万円もする所もあり断念しました。翌日は、湖西線を北上し西大津駅(現大津京駅)に降り立ち、やはり物件を探しますが、こちらは山科駅周辺より物件がありませんでした。その翌日には、堅田駅に期待を持って降りましたが、ほとんどが売り物件で、気にいった店舗は3000万円以上もしておりました。周辺のお店で情報を収集すると、「この辺は、駅からバスに乗られるお客が多く、お店に立ち寄るお客は少ないよ」と言われ、「買い物するなら、京都に出て行き見かけより商売は大変ですわ」とも言われました。後に、私が気にいった物件に奇遇にもメガネ店がオープンしましたが、3〜4年で閉店してしまいました。さらに湖西線を北上して、高島駅の商店街を探しましたが、こちらは見るからに商店街が寂れ(今は安曇川でも同じですが)買い物している人の姿さえ見えません。いよいよ地元の安曇川駅周辺になりますが、駅前の不動産屋に訪ねても、「そんな物件はないで!」と一蹴されましたが、粘り強く探していると、「伊藤さんが、貸していたパーマ屋さんが出て空いているはずや」と言われ、喜び勇んで伊藤家を訪ねました。家賃も7万円と言われ、これなら何とか絵が描けるかなと思い、すぐに契約する事になりました。眼鏡機器の方は調達出来ましたが、店舗の什器などは手配の仕方が分からず、サラリーマン時代からお付き合いのあった卸屋さんには随分とお世話になりました。そんなこんなで、1984年(昭和59年)9月29日に、オープンにこぎ着けましたが、本当にお客が来てくれるのか不安で一杯でした。さて、明日は2週間ぶりにお休みを頂いて、また長女を伴って出かけたいと思っています。(写真は、ご近所の農家の風景と、取る人のない柿の実と、今では珍しい稲の自然乾燥です)

私の回顧録J。
2011/10/28

14年間勤めた会社を辞め失業者になったので、早速職安に出向いて失業保険の手続きをする事にしました。担当の係の人が離職票を見て、「福井さん、こんな給料の良いところなんで辞めはったん?」「高島では、これだけの給料が出るとこありませんで!」「自分で見つけるしか方法はないですね」とそっけない返事でした。27年前の当時の私の給料は手取り約20万円で、そんなに高い給料と思っていなく中流の下くらい(当時は一億人が中流と言っていました)かなと考えていました。ところが、ここ高島では平均12万円ほどで大阪の賃金の5〜6割程度しか支給されていなく、「これでどうして生活しているのやろう?」と疑問に思っていましたが、後で分かった事ですが圧倒的に「夫婦共稼ぎ」が多く、夫婦で一人前と言う事かもしれません。もう、地元の職安に行っても求人票すら見る気になれず、大津や京都まで足を伸ばしました。職安からの紹介でメガネ店にも面接に出向きましたが、給与面で折り合わずこちらからお断りする事が多かったです。この様に、最初から自営業をしょうと決めていた分けではなく、次第に自分でメガネ店でもするしかないかと思うようになりました。また、これまで恥ずかしながら運転免許が無かったので、湖西自動車教習所に通い始め若い子やおばさんに混じって練習に励みました。嫁さんは高校時代に免許を取っていましたが、まさに「ペーパードライバー」で、予算が無いので中古車を購入しましたが、落ち着いて乗っていられない危ない運転でした。「仕事を辞めたら、一度ゆっくりしたい」と言う思いから、毎日ほど釣り竿を持って琵琶湖に通いました。約一月ほど通ううちに、飽きが来てしまい勝手なもので、「無性に働きたい」と思うようになりました。再就職の見通しも立たず、じっともしていられないので、メガネ店の具体化に動き出しました。そうは言っても、貯金も無くどのようにして安く上げるかばかり考えていましたが、かっての同僚が協力してくれて、大方の機器は中古品の譲渡で賄うことが出来ました。(写真は、「朽木・想い出の森てんく」の玄関と周辺の光景です)

私の回顧録I。
2011/10/25

昭和59年当時の湖西線は、本数も少なく(今でも少ないですが)しかも、通勤快速や新快速もなく京都までたっぷり1時間はかかりました。また、最終電車が、京都発午後10時でそれ以降は、途中駅止まりの電車もなく、何度か間に合わずにホテルに泊まりました。今でこそ、京都発午後12時過ぎまで今津行きがありますので夜遅くまで大阪で飲んでも帰れるようになり、随分と便利にはなりました。神戸営業所に転勤になり、3年近くが経とうとしていた頃、会社が業績不振になり相次いで営業所が閉鎖されて行きました。神戸営業所も例外でなく、会社の幹部が来る度に「ここも閉鎖の対象だ!」と言われ「勝手に仕上がれ!」(沢田研二の歌ではありませんが)と思うようになりました。ちょうど入社してから14年目になろうとしておりましたが、「もう、この会社から学ぶものはない」と言う気持ちが強くなり、おまけに会社の方針がころころ変わり嫌気が指しました。ある日、所長に「辞めますわ」と伝えると、「君は、大阪に戻れるようにお願いしてある」と慰留されましたが、気持ちは変わりませんでした。後で分かったことですが、その頃から2〜3年で、20人以上が退職しほとんどがメガネ店の経営に関わるようになり、多い時は10店舗近くになりました。退職が決まると、懇意にしていた広島営業所の連中が、私の為に「送別会」をしてくれるとと言うので、感激と喜びで駆けつけました。広島の「ながれかわ」に着くと、ほぼ全員が揃っていて「神戸営業所や大阪営業所でも、この様な会は無かったのでとても嬉しいです」と挨拶したら、大きな拍手と「ご苦労様でした!」と言われ、夜通し飲み明かした事が思い出されます。わずか140万円の退職金が振り込まれた通帳を見て、14年間のご褒美にしては少ないような気がしました。さて、今日の安曇川は、晴れていたのに雨が降るという時雨模様で、いよいよこの季節がやってき来たのかと思うと少し憂鬱です。(写真は、秋色が深まる新旭・風車村の風景です)

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