メガネ・補聴器・光学用品専門店・気軽に何でも相談・滋賀県福祉法指定店
メガネ・補聴器のフクイ メガネ・補聴器のフクイ
メガネ・補聴器のフクイ トップ 紹介 掲示板

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ
私の回顧録N総集偏。
2011/11/13

当初、お店をオープンした頃「いつまで営業しておられますか?」と聞かれ、「続けられる限り頑張ります」と答えましたが、きっと「催事で期限がある」と思われたようで、それくらい新しい店が出来ろのが珍しかったのでしょう。また、安曇川町には意外と「福井」姓が多く、「どこそこの福井さんの息子さんやな」と勝手に解釈され、あえて否定も肯定もしませんでした。考えられない事ですが、「白髭神社の夜店」で買ったメガネの修理を頼まれ、品物があまりにも粗悪品なのでご辞退申し上げた事もありました。最近では、「百均」で買われたメガネを直してくれと言われ、「百円かかりますよ」と答えても「かまへんわ」と言う人もあります。1987年(昭和62年)から、補聴器の販売を始めましたが、忘れる頃に来客があり聴力を測定したり説明したりしました。一年に2〜3台売れれば良い方で、しかも新機種などなく10年近くはずっと同じ商品でした。お年寄りが相手の商売ですから、すべての事に根気がいりました。2000年に入ると、パソコンで調整する機種が現れ、やむを得ずパソコンの操作を覚えるようになりました。今では毎年新製品が発表され、まるで携帯電話の販売のようでついて行くのがやっとの思いです。この頃から補聴器もかなり社会に浸透し、年に20〜30台と大幅に増加しました。まあ、本当に色々あった28年間でしたが長かった様で、あっと言う間の事だったような気がしております。くだらない話しを長々と書きましたがお許し下さいますようお願い申し上げます。ところで、連日タイの洪水のニュースが報道されていますが、メガネ業界は関係ないやろと思っていたらホヤメガネの工場がダメになったそうです。そのとばっちりで、他社に注文が殺到し納期遅れが出ています。朝からお客さんに、お詫びの電話をするのが日課になりました。国内では安く作れないからと、安易に海外に工場を移すのはいかがなものかと思います。(写真は、道の駅マキノ・追坂峠で見たツノナス(別名フォックスフェイス)と琵琶湖の遠景と色ずき始めた木々です)

私の回顧録M。
2011/11/09

私がメガネ店をオープンした1984年(昭和59年)頃は、都会から安曇川町に転入して来る住民はまだまだ少なく密かに「よそ者」と呼ばれていたようです。面と向かっては言われませんでしたが、お酒など入るとこそこそ話の中で聞こえている事がありました。少し腹が立つと「私の免許証を見てみろ。日本国籍と書いてあるやろう!」と言ったり、「あんたの息子も大阪で働いてるらしいけど、よそ者と言われてるか聞いてみろ!」などと反発していました。やがて10年が経った頃、そのような話しはほとんど聞かれなくなり「今度、商店街の会長してもらえんやろうか?」と言われ、「よそ者の私で良ければ、やらせてもらいます。」と答えましたが、安曇川の住民も随分と変化してきたなと思いました。商店街の活動では、今までの慣習を打ち破り「みんなで楽しい事をしょう」と思い、年に一回の親睦旅行を数回にしたり、忘年会、新年会を必ず開いたりしました。古参の役員から苦情が来ましたが、他の会員からはおおむね好評でした。その後も何度か役員を引き受けましたが、お互いの気心が分かり、メガネのお客としても来店下さるようになりました。さて、昨日の立冬から急に寒くなり、急遽暖房に切り替えましたが今日の最高気温も14℃しかありません。このまま寒くなるのか、それともまた暖かくなるのか最近の気候は想像がつきませんね。(写真は、刻々と変化する高島時雨の新旭・太田地区から西の方角、比良山系を撮影しました)

私の回顧録L。
2011/11/04

オープン当日に備え、新聞にチラシの折り込みもし安曇川駅前でチラシを配り、また校長先生の許可も得て安曇川高校や安曇川中学の校門でもチラシを手渡しました。今も忘れませんが、一番に来られたのは、近所の薬局のおばあちゃんで老眼鏡の購入ですので金額的にはわずかですが嬉しかったのを覚えています。もう一人は、向かいの本屋さんのおじいちゃんで遠近両用でしたので金額は上がりました。初日に二人も来てくれたと、晩御飯に乾杯したことが昨日の事のようですが、今はもうお二人とも亡くなられてましたがご葬儀には参列させて頂きました。よく考えたら、隣の人も向かいの人もまったく知らないし、地縁も血縁も無く同窓生や友人も無い中で良くやったなあと今になって思います。あまり田舎の生活が分かっておらず、「あそこのお嫁さんは、どこそこの娘さんや」また「あそこの次男は、どこそこに勤めているやろう」また「うちは、あそこのメガネ屋と濃い親戚になるけど、嫌いやから来たんや」などと言われました。今でこそ、横線と縦線が繋がり理解出来る様になりましたが、最初の頃は「ただ口を開けて、聞いているだけ」の状態でした。高島にも方言があり、その話し方が可笑しくまた時々理解出来ない単語もしばしばありました。今でも覚えているのは、「あにい」と言う単語で、「このおじさんのあにいなら、いったい幾つくらいになるのかな?」と思っていると、「自分の息子」の事だったのです。また、「このだらが!」と叱るように子どもに話しているのを聞くと、どうやら「馬鹿が!」と訳したら良いのだと分かりました。今になれば、通訳を必要とせず時々自分がその言葉を使っている事を指摘され、恥ずかしい思いをしたことがあります。さて、2日は伊吹山ドライブウェイに乗って、山頂を目指す予定でしたが連日の暖かさでまったく「紅葉がされていなく」入り口で引き返しました。その代わり、旧伊吹町(現米原市)にある「泉神社」と言う「日本名水百選」の湧き水を汲んで来ました。ここは、「瓜破の水」より有名なのか愛知や岐阜や三重の車で一杯で、しかも汲む量が半端でなく30分近く待たされました。飲んだ私の評価は、「瓜破の水」の方が美味しく思いますが、あまり宣伝して「瓜破の水」があの様になるのは、避けたいものです。(写真は、色々な表情を見せる伊吹山です)

私の回顧録K。
2011/11/01

今風で言うと就活もうまく行かず、いよいよ自分でメガネ店をしようかと言う風に決意が固まりました。そうなると店舗を探す事になりますが、最初は琵琶湖線と湖西線との別れる山科駅周辺から始めました。一日かけて徒歩で探しましたが、なかなか良い物件が見つからず、また見つかっても家賃が30万円もする所もあり断念しました。翌日は、湖西線を北上し西大津駅(現大津京駅)に降り立ち、やはり物件を探しますが、こちらは山科駅周辺より物件がありませんでした。その翌日には、堅田駅に期待を持って降りましたが、ほとんどが売り物件で、気にいった店舗は3000万円以上もしておりました。周辺のお店で情報を収集すると、「この辺は、駅からバスに乗られるお客が多く、お店に立ち寄るお客は少ないよ」と言われ、「買い物するなら、京都に出て行き見かけより商売は大変ですわ」とも言われました。後に、私が気にいった物件に奇遇にもメガネ店がオープンしましたが、3〜4年で閉店してしまいました。さらに湖西線を北上して、高島駅の商店街を探しましたが、こちらは見るからに商店街が寂れ(今は安曇川でも同じですが)買い物している人の姿さえ見えません。いよいよ地元の安曇川駅周辺になりますが、駅前の不動産屋に訪ねても、「そんな物件はないで!」と一蹴されましたが、粘り強く探していると、「伊藤さんが、貸していたパーマ屋さんが出て空いているはずや」と言われ、喜び勇んで伊藤家を訪ねました。家賃も7万円と言われ、これなら何とか絵が描けるかなと思い、すぐに契約する事になりました。眼鏡機器の方は調達出来ましたが、店舗の什器などは手配の仕方が分からず、サラリーマン時代からお付き合いのあった卸屋さんには随分とお世話になりました。そんなこんなで、1984年(昭和59年)9月29日に、オープンにこぎ着けましたが、本当にお客が来てくれるのか不安で一杯でした。さて、明日は2週間ぶりにお休みを頂いて、また長女を伴って出かけたいと思っています。(写真は、ご近所の農家の風景と、取る人のない柿の実と、今では珍しい稲の自然乾燥です)

私の回顧録J。
2011/10/28

14年間勤めた会社を辞め失業者になったので、早速職安に出向いて失業保険の手続きをする事にしました。担当の係の人が離職票を見て、「福井さん、こんな給料の良いところなんで辞めはったん?」「高島では、これだけの給料が出るとこありませんで!」「自分で見つけるしか方法はないですね」とそっけない返事でした。27年前の当時の私の給料は手取り約20万円で、そんなに高い給料と思っていなく中流の下くらい(当時は一億人が中流と言っていました)かなと考えていました。ところが、ここ高島では平均12万円ほどで大阪の賃金の5〜6割程度しか支給されていなく、「これでどうして生活しているのやろう?」と疑問に思っていましたが、後で分かった事ですが圧倒的に「夫婦共稼ぎ」が多く、夫婦で一人前と言う事かもしれません。もう、地元の職安に行っても求人票すら見る気になれず、大津や京都まで足を伸ばしました。職安からの紹介でメガネ店にも面接に出向きましたが、給与面で折り合わずこちらからお断りする事が多かったです。この様に、最初から自営業をしょうと決めていた分けではなく、次第に自分でメガネ店でもするしかないかと思うようになりました。また、これまで恥ずかしながら運転免許が無かったので、湖西自動車教習所に通い始め若い子やおばさんに混じって練習に励みました。嫁さんは高校時代に免許を取っていましたが、まさに「ペーパードライバー」で、予算が無いので中古車を購入しましたが、落ち着いて乗っていられない危ない運転でした。「仕事を辞めたら、一度ゆっくりしたい」と言う思いから、毎日ほど釣り竿を持って琵琶湖に通いました。約一月ほど通ううちに、飽きが来てしまい勝手なもので、「無性に働きたい」と思うようになりました。再就職の見通しも立たず、じっともしていられないので、メガネ店の具体化に動き出しました。そうは言っても、貯金も無くどのようにして安く上げるかばかり考えていましたが、かっての同僚が協力してくれて、大方の機器は中古品の譲渡で賄うことが出来ました。(写真は、「朽木・想い出の森てんく」の玄関と周辺の光景です)

私の回顧録I。
2011/10/25

昭和59年当時の湖西線は、本数も少なく(今でも少ないですが)しかも、通勤快速や新快速もなく京都までたっぷり1時間はかかりました。また、最終電車が、京都発午後10時でそれ以降は、途中駅止まりの電車もなく、何度か間に合わずにホテルに泊まりました。今でこそ、京都発午後12時過ぎまで今津行きがありますので夜遅くまで大阪で飲んでも帰れるようになり、随分と便利にはなりました。神戸営業所に転勤になり、3年近くが経とうとしていた頃、会社が業績不振になり相次いで営業所が閉鎖されて行きました。神戸営業所も例外でなく、会社の幹部が来る度に「ここも閉鎖の対象だ!」と言われ「勝手に仕上がれ!」(沢田研二の歌ではありませんが)と思うようになりました。ちょうど入社してから14年目になろうとしておりましたが、「もう、この会社から学ぶものはない」と言う気持ちが強くなり、おまけに会社の方針がころころ変わり嫌気が指しました。ある日、所長に「辞めますわ」と伝えると、「君は、大阪に戻れるようにお願いしてある」と慰留されましたが、気持ちは変わりませんでした。後で分かったことですが、その頃から2〜3年で、20人以上が退職しほとんどがメガネ店の経営に関わるようになり、多い時は10店舗近くになりました。退職が決まると、懇意にしていた広島営業所の連中が、私の為に「送別会」をしてくれるとと言うので、感激と喜びで駆けつけました。広島の「ながれかわ」に着くと、ほぼ全員が揃っていて「神戸営業所や大阪営業所でも、この様な会は無かったのでとても嬉しいです」と挨拶したら、大きな拍手と「ご苦労様でした!」と言われ、夜通し飲み明かした事が思い出されます。わずか140万円の退職金が振り込まれた通帳を見て、14年間のご褒美にしては少ないような気がしました。さて、今日の安曇川は、晴れていたのに雨が降るという時雨模様で、いよいよこの季節がやってき来たのかと思うと少し憂鬱です。(写真は、秋色が深まる新旭・風車村の風景です)

私の回顧録H。
2011/10/21

自宅のある城東区・関目からは、阪神電車で通っていましたが、ほとんど毎日ほど神戸製鋼のラグビー部の選手と同乗する事がありました。中には、テレビや花園で見た顔の選手もいて、唯一の楽しみでもありました。さて、営業のまったく経験が無いので先輩営業マンに、「営業のノウハウを教えて下さい」とお願いしたら「そんなもの、身をもって覚えるしかないし、私も人に教えるほど自信がない」と言われてしまいました。スタッフが6名しかいない小さな営業所でしたので、電話注文の受付や発送の梱包と雑用の合間に営業に出かけました。ある新年など、朝から電話が鳴り止まず昼食の摂る間もなく、一階にある「吉野屋の牛丼」で5日間も過ごしました。来社するメガネ店から「おせち料理に飽きたのかいな?」と言われ、「いえ、牛丼に飽きてます」と答えておきました。残念ながら、営業では数字が上がりませんでしたが、立ち寄ると「コーヒーを注文してくれる」お店は増えました。この頃、また「弱視眼鏡」(視力が0.1以下)の販売も手がけ、「盲学校」や中途失明者の「ライトハウス」などにも行きました。今まで本など読めなかった児童が、本を読めるようになる感動の出会いもありました。ライトハウスでは、社会的地位のある銀行の支店長や大手商社の部課長級の方が、「突発性緑内障」で、失明され明日の生活さえままならず、積極的に弱視眼鏡を試される事は極めてまれでした。この「弱視眼鏡」に関わって、後に開業した時に大変役立ち、「他所の店では断られたけど、何とかならないか?」と言われ、弱視眼鏡の原理で新聞が読めるようになった方が数人おられます。この間、訳あって自宅が安曇川に引っ越すことになり、毎日片道が2時間30分の通勤を強いられ、週に1〜2日は帰宅すらままならなくなり、どこかで「退職」の気持ちが働いていました。ところで、東京での笑い話の二つ目は、熊本出身の同僚が、「有楽町に「赤ひょうたん」(後に関西でもお目見えしました)と言う美味しい洋食屋さんがあるらしいから行かないか?」と誘われました。早速出かけて、「カニクリームコロッケ」を注文しましたが、出て来たお皿を見てびっくりしました。コロッケは隅の方にあるだけで、てんこ盛りの野菜のサラダが出て来ました。「俺らは家畜やないぞう!」「こんなに野菜が食べられるか!」と店内を見回すと女性客ばかりで、男性客は自分達だけでした。それでも不思議な事に、何度か足を運ぶうちに慣れて来ました。大阪に戻ってから、阪急三番街に出来ましたし、神戸サンチカなどににもありましたが、野菜サラダの量は減っていて、あの有楽町の時の事が懐かしく感じました。(写真は、安曇川町の旧県立農業試験場に咲く、コスモスの花です)

私の回顧録G。
2011/10/18

加工センターに移籍して、毎日がメガネとの格闘になるのですが、改めて自分の不器用さに気付かされる結果になりました。メガネは繊細な物で、微妙な力加減が必要ですが、それがなかなか身につかず仕事が終わってから、自宅近くの関目にあるメガネ店に研修のため毎日ほどお世話になりました。メガネ店の社長が、「毎日、よく頑張るね」と言われ、「人一倍不器用なので、人一倍練習しなくては行けませんので」と答えておきました。1年目は、「メガネの組立」と言ってばらばらの部品を組立て、一本の完成品を作る仕事でした。当時は、まだまだセル枠が多く、ヤスリをかけた後、「バフロウ」で磨くのですが手先が当たり指先の指紋がなくなる位でした。3年目からは、「ロウ付け」作業(溶接)が主な仕事になり、今度は火傷が絶えず毎日ほどバンドエイドを指先に巻いていました。5年目になって、ようやく「サングラス」なら作っても良いと言われ、飛び上がるような思いでした。それでもまだ、度付きのメガネは作らせて貰えず、先輩が作るのを横目で眺めて、技術を盗もうと必死でした。その頃、「眼鏡士」という認定試験を受験する事になり、学科と実技の勉強が始まりました。学科は、自宅に帰ってから勉強するのですが、高校以来の事ですから「頭が相当固くなり」思うように記憶出来ませんでした。実技は、また近所のメガネ店にお世話になり、ひたすら手作業だけでのメガネを作りました。会社で過去に試験に落ちた者がおらず、万が一不合格なら会社は辞職する覚悟で臨みました。幸い合格に至りましたが、あの時の勉強が今とても役に立ったなと思っています。その後、ようやく度付きのメガネも作って良いとの許しが出ましたが、すでに7年の歳月が経とうとしていました。8年目のある日、所長に呼ばれ「神戸営業所」に転勤と営業職への移動が伝えられました。ところで、東京での笑い話を一つ披露したいと思います。慶応大学のある港区・三田の前に、「東宝パーラー」と言うお店がありました。そこの売り物は「ピザ」が美味しいと言われていて、熊本出身の同僚と二人で入店し注文しました。「ピザ」なるものが出てきて、「これやったら、お好み焼きの西洋版やな」「それにしても、小さいケチャップ瓶やな。東京の人間はせこいな!」とまだ「タバスコ」を知らず、ほとんど一本を使い切ってしまいました。「こんな辛い物、東京の人間は好きなのかな?」「もう、私は二度と来ないわ」「ほんまやな!これやったお好み焼きの方が美味しいで」と言って店を後にしました。後日、先輩女性に誘われて、同じ店に出向きましたが、その話をして大笑いされてしまいました。さて、先日の日曜日に日本共産党の後援会の集いがありましたが、その場所が高島町・萩の浜で「憩いの里湖西」と言う場所でした。28年も住んでいるのに、「知らんな〜」と言う所でした。聞くところによると、「一般人」にはお貸ししないそうですが、「じゃあ、我々は特殊人ですか?」と思わず聞いてしまいました。(写真は、憩いの里湖西から見た琵琶湖と、バーベキューを楽しむ後援会員と、色づきだした木々です)

私の回顧録F。
2011/10/14

旭カールツアィスに入社して2年ほどが経った頃、先輩であるS氏と上手く行かず(誰とも上手く行かない人でした)、もうこの会社を辞めようかと迷っていました。そんな頃、相変わらずメガネ店に訪問して眼鏡機器のメンテナスを続けていましたが、ある時、メガネ店の社長さんから、「白内障や緑内障の事を教えて欲しい」と言われ、「私は機械の専門家でメガネや眼の事は知らないのです」と答えました。また、ある時は、「忙しいから、メガネの製作を手伝って欲しい」とも言われましたが、「残念ながら、お手伝いすろ技術が私にないのです」と答えました。「なんや〜。何も知らないのやね」と言われ、少しショックでした。そんな折り、加工センターの係長が「今晩、飲みに行こうか?」と誘われお付き合いする事になりました。場所は、係長の家の近くで京阪・旧守口駅から徒歩5分ほどの大阪城(だいはんじょう)と言うお店でした。(土手焼きが絶品でしたが、今もあるのでしょうか?)入社してから知った事ですが、この係長は同じ城東工業の先輩になり、日頃から気にかけていて下さった様です。「お前、良かったらうちの課に来ないか?」と言われ、人間関係にも少し疲れ、その上メガネの知識も学びたいと思い、「はい!お願いします」と答えました。今度こそ電機とはまったく関係のない世界に飛び込んだ事になり、まさに「職人の世界」を体験する事になりました。毎朝、誰よりも早く出社し、眼鏡機器の点検・清掃をしながら「モーニングコーヒー」を配るのです。最初は、仕事を与えて貰えず、ただひたすら先輩の仕事ぶりを横で見て覚える事でした。お昼になると、昼食の出前の注文を聞いたり、お茶を配ったりと「まかない係」の様でした。会社の終業時には、朝と同じく眼鏡機器の点検・清掃を終えると、一番最後に会社から出て行く事が当たり前の生活でした。旭カールツアィスは、昭和48年に入社した時から、完全週休二日制になっていましたので、土日・祝日はお休みでした。世間では、お役所が土曜日半ドンという時期でしたので、近所の噂は、「あの人は何している人?」「公務員と違う?」と話されました。当時は城東区・関目の公団住宅に住んでいましたから、夏の日などは帰ってから子どもと散歩を楽しめるほどでした。(写真は、小浜港で小アジを釣る人々と、小浜港に注ぎ込む北川の風景と、小浜港の全景です)

私の回顧録E。
2011/10/11

メガネ業界のことなどまったく分からず、メガネの知識もまったく無く、いったい私は何をするのだろうと半分以上は疑心暗鬼でした。配属されたのは、眼鏡機器事業部と言うお堅い名前の職場でしたが、要はメガネ店で使用する機器で、一つはレンズを削って加工する玉擦機(たますりき)と、もう一つは電動で動く視力表で(ポラテストと呼ばれていました)の納品とメエンテナスでした。当時の玉擦機などは、機械的な動きの部分が多く電気の知識など不要に等しい物でしたので、あまり機械的な事の知識が無く覚えるのに苦労しました。当時は東京本社と大阪営業所しか無かったので、関西はもちろん、中国、四国、九州地方までカバーしていました。私は主に、中国、四国地方を担当しましたが、一週間の半分は地方のメガネ店に出張しておりました。友人には、「あちらこちらに行けて良いね」と言われましたが、「そんなもん、仕事やからめったに名所など行く間などないわ」と答えましたが、金曜日の出張などになると翌日が休みですので、四国では金比羅さんや屋島、大歩危小歩危など、鳥取では砂丘や大山、島根では日御碕や出雲大社などに行きました。おかげで色々な思い出が出来ましたが、出張から戻り精算すると、いつも決まって大赤字になっていました。当時は地方に出張すると、メガネ店の社長が「今晩は、店を閉めたら良いところに連れて行ってあげる」と言われ、ある時は高知の繁華街を、ある時は高松の繁華街を、またある時は和歌山の繁華街を深夜までお付き合いしました。松山では、「明日休みやろう?船で釣りに行こう」と言われ背広姿で釣りをした事もありました。また、「これはご当地のお酒や。持って帰ってや」と一升瓶を2本持たされ、あまりに重いので帰りの列車内で他の乗客と飲み、さながら宴会状態になった事もあります。またある店では「今日は何の世話も出来なかったので、これで食事でもして下さい」とポチ袋を渡され、後で開けてみると1万円札が入っていて上司と相談したら「そんなもん、黙って貰っとけ」と言われました。私の税込みの給料が5万円の時代ですから、いかに大金か想像がつくでしょう。世間ではオイルショックとかで、何故かトイレットペーパーの買い占めが行われている時、眼鏡業界は「この世の春」と思えるくらい景気が良かった時代でした。(写真は、敦賀・きらめき温泉「りラ・ポートと、そこから眺めた敦賀市内と、どことなく秋めいた背後の雑木林です)

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ


Copyright (C) 2006メガネ・補聴器のフクイ. All Rights Reserved.
お問い合わせ