「泰澄の杜」に行きました。
2015/09/25
連休最後の23日(水)に、長女の帰省に合わせてお休みを頂き、敦賀方面から越前海岸を目指しました。いつも休憩で立ち寄る「鞠山・海釣り公園」はすごい人出で、駐車場が満杯に近くなっていて、久しぶりに活気に沸いていました。やはり子どもずれが多く、体長10p前後の子アジが釣れるたびに歓声が上がっていました。「俺たちもたまには、竿を持って来なければ」「今年まだ一度も来ていないなあ」と反省をしていました。今日は何故か「泰澄の杜」に行くことを決めていて、国道8号線から杉津(すいつ)地区で「しおかぜライン」を利用して越前海岸を北上します。天気が良いせいかバイクのツーリングが目立ちましたが、ほとんどがいわゆる「中高年ライダー」でした。いつも立ち寄る「おさかな屋」さんも、連休で忙しそうです。「え〜、鯖があったけど買わないか?」と訊くと、「さばける人がいなくなったので無理やわ」と嫁さんが言います。「サンマでもあったら買ったのに、売ってないわ」」と手ぶらで店を出ました。ここから、「泰澄の杜」まで峠越えを」しなくてはなりませんが、何度も来ているのでカーナビが不要なくらいです。午前11時前に到着して、まずは温泉を楽しむことにしましたが連休中にもかかわらず、それほどお客も多くなくゆっくり入れそうです。〒916ー0111 福井県丹生郡越前町小倉第88号55番地1 п@0778ー34ー2322 JR鯖江駅から車で30分 鯖江ICから車で30分 営業時間 午前8時〜午後10時 休館日 第1・3・5火曜日 入館料 大人500円 この1か月はバタバタとしていたので、久しぶりにリフレッシュが出来て満足でした。入浴後は、長女の最大の楽しみである昼食ですが、今回は「おろし蕎麦定食」1030円にしましたが、風呂上がりの熱い体に、とても美味しく頂く事が出来ました。さて、期待していたラグビーW杯ですが日本10ー45スコットランドに大敗をしてしまいました。やはり3日間で次の試合に臨むのは無理があった様ですが、それよりも単純なフォワード中心の攻撃が目立ち、得意とするランニングラグビーがまったく出来ていなかった事が敗因だと思います。ところで、今日は「南郷中学校」の同窓会が大阪で開かれます。毎回、欠かさずに出席していたのですが、明日にはお坊さんがお参りに来られるので見送りました。「みなさん、楽しんで下さいね!」と安曇川から声を大にして伝えたい気持ちです。(写真は、鞠山・海釣り公園で釣りを楽しむ子ども達と、大きなサワラが販売されていたおさかな屋さんと、お昼に食べた「おろし蕎麦定食」です)
日本が大金星でした。
2015/09/22
「「史上最大の衝撃」「ラグビーはもはや一部のエリート国が支配する時代ではなくなった」。日本がW杯初戦で優勝候補の南アフリカを破った一戦は世界を驚嘆させました。ラグビー発祥の地で歴史を刻んだ9月19日。その日は日本のラグビーを変革した大西鉄之祐の命日でした。体格で劣る日本が、いかにして世界とたたかうか。20年前に亡くなった大西が導き出した理論が「展開、接近、連続」。ボールを素早く展開する。相手にはぎりぎりまで接近する。連続攻撃を仕掛けるー。小回りが利き、持久力や瞬発力に優れた日本人の特性を生かそうと編み出された戦術でした。しかし日本は、強豪が集うW杯で負けを重ねます。前回まで7大会連続で出場しながら、1勝2分21敗。ニュージーランドに145失点の屈辱的大敗を喫するなど長く低迷してきました。4年前、代表の指揮官に就任したエディー・ジョーンズ・ヘッドコーチはそこに進化をもたらしました。代表資格を得られる外国人選手を積極的に登用。「世界一タフ」といわれる練習で80分間動き回れるスタミナをつけ、培ってきた日本らしい攻撃に磨きをかけました。どんな分野でも、そびえ立つ巨大な壁に風穴が開けられたとき、その世界は生まれ変わります。日本の目標は予選を勝ち抜いてベスト8に入ること。次はあしたのスコットランド戦。「歴史は一つ変えたけど、この後にもっと大きく変えたい」(五郎丸選手)。世界中を興奮させた桜のジャージーの挑戦がつづきます。」(22日付けしんぶん赤旗「潮流」より) 残念ながら私は前半終了で寝てしまいましたので、この結果を知ったのは翌朝でした。前半を12ー10の2点差だったので、勝てるとは思っていませんでしたが、かなりの善戦はするだろうと感じていました。後半、点を取られても取り返す展開となり、それが、まさか、まさかの大逆転を産みました。やあ〜、しびれる様な試合で見ていて言葉になりませんでした。これは、世界のラグビーの歴史に残る快挙で、これを機にラグビーファンが増えるきっかけになれば良いですね。さて、昨日は午後からお休みを頂き、息子の住む草津市まで二人目の孫に会いに出かけました。道路は混雑しているだろうなと想像はしていましたが、白鬚神社の手前で動かなくなりました。結局、1時間10分ほどで行けるはずが2時間以上かかり、予定が狂ってしまいました。午後8時に帰路に着きましたが、1時間ほどで帰って来れました。ただ、南に(大津市方面)向かう対抗車線は、延々と渋滞が続き、安曇川を越えていましたので、車での外出は考え物ですね。(写真は、自宅の近くに咲いた彼岸花と、孫を抱いてご機嫌の嫁さんです)
世間はシルバーウィークです。
2015/09/19
ETV特集 帰還への遠い道 福島・楢葉町一年の記録 NHKEテレ 午後11時〜 原発被害の地で希望を持ち続け「福島第1原発事故から4年半。9月5日に楢葉(ならは)町への避難指示が解除されました。全住民が避難している7自治体の中では初めての住民帰還です。失われた生活を取り戻せるのか。楢葉の人々の1年間を丁寧に追います。昨年夏から、昼は町への立ち入りが認められています。伸び放題の草木、跋扈(ばっこ)するネズミ。人間の営みが消えた街は無残に変化していました。除染で出た放射性廃棄物の山に、住民の不安の根本が示されます。それでもなんとか故郷を取り戻したい。室町時代創建の寺の住職は荒れた庭を手入れします。由緒あるご本仏は避難先のアパートの押し入れの中です。避難先の仮設住宅で営業を続ける床屋さんなど住民の願いと、復興の形を示したい政府、東電とのミゾの深さが描かれます。帰還が始まったその夜、町に明かりはなく、町に戻った住民は1割に届きません。「3・11以前に戻れないことが避難指示の解除によって現実になった」という住職の言葉が重い。人の生活を根こそぎ奪う原発事故の罪深さと、それでも希望を持ち続ける人々の営みにいとおしさを感じるのです。」(19日付けしんぶん赤旗「試写室」より) あれだけ甚大な被害を被りながら、懲りもせず九州電力の川内(せんない)原発が再稼働しました。太陽光発電などが普及し、原発が稼働しなくても乗り切れた今年の夏。一体何のために再稼働するのか、全く理解が出来ないのは私だけでしょうか?さて、「ラグビーW杯」が始まり、日本は南アフリカとの初戦に臨みます。なかなか手強い相手ですが、初戦を落とすとベスト8入りは難しくなります。(日本時間20日午前0時45分)今夜は、続いてのテレビの観戦になりそうで、眠れない夜になります。今日からシルバーウィークが始まり、各地の高速道路や新幹線が混雑しているニュースが流れています。そのわりに、安曇川はいつもより静かなのは「農繁期」を迎えているからかもしれません。(写真は、岐阜県・道の駅「さかうち」の看板と、滋賀県・道の駅「母の郷」の湧水と、近江八幡市・大中の「愛菜館」で売られていたイチジクですが1個100円もしました)
道の駅・「池田温泉」で買った花鉢。
2015/09/15
池田温泉の新館・本館の周辺には、道の駅・「池田温泉」(水曜日定休)も整備されており、お土産品や農産物が販売されています。今回、私は入り口付近に販売されていた一鉢120円の花鉢を買い求めましたが、なかなかこの値段では他所ではないと思います。池田温泉と言っても、位置関係が分からないと思いますが、車で大垣市内から15分程度北西に走った場所にあります。前にも書きましたが、新館より本館の方がお薦めしますが、規模的には新館の方が広いのは確実です。池田温泉を後にして、帰路につきましたが、ここから国道21号線で関ヶ原に出ることになります。国道を走っていると、「関ヶ原古戦場」の看板が見えます。初めての方なら「関ヶ原歴史博物館」に立ち寄るのも、また石田三成陣営跡に立ち寄るのも良いでしょう。やがて、伊吹山ドライブウェイのある交差点を左折するのですが、ここに大きな看板で「関ヶ原鍾乳洞」と書かれてあります。まだ行ったことがないのですが、どの程度の物なのか調べて行くかどうか考えたいと思います。関ヶ原から、大きな姿の伊吹山の裾野を走り、長浜市内に戻って来ました。まだ、午後2時過ぎだったので、北回りでは早く自宅に帰ってしまうので、あえて、湖周道路を南下して彦根市から近江町(現米原市)の道の駅「母の郷」で小休止しました。先ほどから長女が「アイス、アイス」と言うので、ここでソフトクリームを買ってもらった事を覚えているようです。さらに大中(近江八幡市)にある「愛菜館」で野菜を買い求めましたが、店頭に並ぶスイカが終わりを告げていました。さらに守山市から琵琶湖大橋を渡り、午後5時前に自宅に到着しました。今回の走行距離は200qと、いつもよりは短めの距離でしたが、日暮れが早くなって来たのでちょうど良かったと思っています。さて、安曇川では、最低気温が20℃を下回る様になり、半月程前の猛暑が嘘のようです。夜中など、寒くて目が覚め布団を探しているほどで、「寝る前に準備しとけ!」と自分に叱咤しています。(写真は、池田温泉本館で食事中の嫁さんと長女と、道の駅「池田温泉」から見た大垣市内と、120円で買った花鉢です)
岐阜・池田温泉本館に行きました。
2015/09/12
10日(水)は、長女の帰省に合わせて一日遅れのお休みを頂き、岐阜県・揖斐川温泉を目指しました。国道8号線を旧木之本町(現長浜市)から国道303号線を走るのですが、県境を山越しますので平地では降っていなかった雨が激しく降って来ました。慎重に運転しながら、目的地の揖斐川温泉「藤橋の湯」に到着しました。荷物を下ろそうと車から降りようとしたら、玄関に「本日休館」の文字が目に飛び込んで来ました。「え〜っ、ここの休館は火曜日と違った?」「いつもは、水曜日に来ているので勘違いしていたわ」と未練がましくぼやいていました。ここから最も近い温泉は、池田町にある池田温泉に行くことにしましたが、まだ30分は走る事になりました。午前11時にに池田温泉に到着、新館と本館の二つの施設が少し離れてあります。「新館は、もう4〜5回は来ているので、本館にしようか?」「まだ一度も入ってないので、そうしょう」と意見が一致しました。「池田温泉 本館」〒503−2428 岐阜県揖斐郡池田町片山3021−1 電話 0585ー45ー1126 営業時間 午前10時〜午後10時 休館日 毎週月曜日 入浴料 大人500円 障害者250円 新館は毎週水曜日ですので、どちらかが営業している事になります。本館は古い建物なので、老朽化しているのではないかと不安でしたが、心配は無用でした。入浴客も少なく、露天風呂も広く4か所もありました。何よりも、周辺の樹木が育っていてガーデン風の気配です。お湯の温度も低めで、ゆっくり楽しむ事が出来ました。「新館より本館の方が絶対良いね」「長女も、珍しくゆっくり入っていたのに驚いたわ」との事です。ちょうど、午前12時を過ぎていたので、隣接する、食事処「上田屋」を利用しました。私と長女は、「親子丼定食」670円を、嫁さんは「冷やし中華」500円を頼みました。この半月は、慌ただしく過ごしたので、本当に久しぶりにリフレッシュ出来ました。(写真は、マキノ町の道の駅「追坂峠」で、車に張り付いた大きな蛾と、池田温泉・本館の玄関と、本日の昼食だった「親子丼定食」です)
台風18号が接近中です。
2015/09/09
7日(月)は、従兄弟の嫁さんの葬儀に参列するため安曇川を午前9時に出かけました。京都駅から近鉄・京都線に乗り換え、新祝園駅(精華町)で待ち合わせした別の従兄弟とJR奈良駅前にあるホールに午前11時過ぎに到着しました。告別式は午前12時からだったので、喪主や親戚の方と挨拶したりしているうちに時間がやって来ました。亡くなった奥さんの年齢は55歳だったそうで、前回の店長日記に書いた年齢よりはるかに若かったのでした。喪主である従兄弟の挨拶では、「7月22日に奈良市民病院に行ったところ、余命一ヶ月と言われました。その日は、家に帰ったら二人でずっと泣いていました。それでも、緩和治療で元気になったようですが、退院予定日の前日に容体が急変して退院は叶いませんでした。」「退院したら、何がしたい?スペイインに行くか、それともハワイか?」と訊ねると、「お店(薬局)を開けて、お客さんと話がしたい。」と言ったそうです。また、「私は幸せな人生を送れて後悔はありません。」とも言ったそうです。死顔は、綺麗に化粧されていて、「まるで眠っている様な穏やかなお顔」でした。ただ、まだ両親が健在なだけに、痛々しくもあり直視出来ませんでした。火葬場まで、奈良公園内を通り過ぎるのですが、シカが戯れる姿を呆然と見ている自分がいました。父親が亡くなった時よりも、ショックが大きく、その夜はなかなか寝付かれませんでした。さて、台風18号が琵琶湖の東岸を通過中ですが、午前中の雨も上がり晴れ間さえ見えて来ました。明日は、3週間ぶりにお休みを頂き、温泉でも入りリフレッシュして来ようと思います。(写真は、敦賀市・立石地区のひなびた漁師街の光景と、海水浴を楽しむ家族と、久々に立ち寄った瓜割の滝の光景です)
「能登消滅 9分の8の衝撃」。
2015/09/06
ドキュメント’75 日本系 深夜1時30分「北陸新幹線の開通と朝ドラで注目されている石川県能登半島。しかしその裏で過疎化にさらされ、家屋だけを残して人影が消えてゆく集落の実態に迫ります。テレビ金沢製作。昨年、民間研究機関が発表した調査によると、能登地域では九つのうち八つが「消滅可能性都市」に該当すると指摘されました。中でも半島の先端に近い能登町は特に深刻だといいます。かつて能登町は4万人が暮らす活気のある町でした。しかし主力の漁業も次第に低迷し人口は半減、2町1村による「平成の大合併」も逆効果にしかなりませんでした。10年前には鉄道も消えて客足も減り、タクシーも廃業に追い込まれました。同じく「消滅」が指摘される輪島市。その大釜地区では雇用の創出を期待し、人々は切なくも産廃処分場誘致に望みをかけました。しかし観光が売りである市は誘致反対の決議を可決。移転のめどが立たずうなだれる人々の前に、やり切れなさだけが横たわります。「伝統あるふるさとを守り・・・」と打ち出された政府の「地方創生」。しかし美しい言葉より実のある施策が求められている現実を、映像は静かに訴えます。」(6日付けしんぶん赤旗「試写室」より) ここ高島市でも、現在約5万人余りの人口が、10年後には3万人台になり、さらに30年後にはゼロになると言われています。高校卒業生の約9割が、進学や就職のためふるさとを離れて行きます。この様な現状に、行政はあまりに無策で「なるがまま」の状態となっています。さて、父が亡くなり、毎週土曜日には「お坊さん」がお経を上げに来られます。「外国語」を聴く様な感覚でお経の本を見ていますが、習得するのに100年はかかりそうです。また、不幸は不思議と続くもので、従兄弟の嫁さんが亡くなったと電話がありました。まだ、60歳になるかどうかで死因は「乳ガン」だそうです。ガンと宣告されてから2か月と持たなかったそうで、従兄弟の気落ちは目に見えます。明日は告別式に、奈良市まで出かける予定ですが、そろそろ自分たちに順番が回ってきたのかなと感じています。(写真は、こんな大きなヤドカリがいるのと思った水槽と、色々な魚が泳いでいて手に触れる体験が出来る三方町・食見地区にある福井県立海浜館です)
長浜別院大通寺(だいつうじ)。
2015/09/02
「「ごぼうさん」の愛称で親しまれている長浜別院大通寺(真宗大谷派)。門前の「ながはま御坊参道道」商店街に、四肢を広げたユニークな”お花きつね”のオブジェがある。大通寺に昔から住むというきつねの昔話にちなむものだ。表参道の米川(よねかわ)に架かる針屋橋の欄干(らんかん)もきつねの頭と尻尾の形をしていて、傍らに設置された音声ガイドで昔話を聞くことができる。その昔は、江戸時代初期の長浜御堂(みどう)(のちの大通寺)の移転問題に関わる。御堂はもともと旧長浜城内にあったが、現在地の石田屋敷跡に移転する際、移転派と城内派が対立し、京都の本山で決めてもらうことになった。先発した城内派が野洲川まで来ると、急な夕立で川止めに。仕方なく堤防の茶店で休息すると、「お花」という娘が手厚くもてなしてくれた。ようやく川が渡れるようになり、急ぎ京都に着くと、後発の移転派がすでに本山の許可を得て帰るところ。がっかりした城内派の一行が野洲川まで戻ると件(くだん)の茶店はなく、娘もいなかった。移転に賛成だった石田屋敷のきつねの仕業だったのだろうか・・・。お花きつねにまつわる話は他にもあり、民話として語り継がれている。大通寺の門前町として発展してきた長浜の人々の「お花さん」を愛する思いが伝わってくるようだ。」「お花きつねは昔から大通寺の大広間の天井に住んでいるといわれ、広間には梯子(はしご)が掛けられている。「お花さん」は大通寺を火災から守っているともいわれていて、この梯子をのぼって油揚げをお供えする人があとを絶たないとか。参拝の際には梯子を探してみては?」(クラブケイブン8月号より) 長浜と言えば、「黒壁ガラス館」や「八幡宮」は行ったことがあるのですが、「長浜別院大通寺」の事は知りませんでした。この様な記事を見ると、まだまだ、県内でも知らないところがあると気付かされます。さて、父が亡くなり10日ほどが経ちましたが、会う人々から「淋しいやろう。体に気をつけてな。」と慰められますが、どこかサバサバとした自分がいます。本当は、これから先に、何かが思い出されると寂しさが出てくるのでしょうか?(写真は、「戦争法案反対8・30全国統一行動高島集会」の後に、町内を宣伝する嫁さんたちです)
今年一番腹立たしい事。
2015/08/29
時々、欲しい物があるとインターネットで買い物をするのですが、「楽天」を通じて2014年1月に買い求めたカーナビが当初から不調でしたので販売店に修理の依頼をしました。2週間経っても連絡がないので、こちらから電話をしました。電話口に出た「社長」と名乗る男性と話しましたが、日本語のイントネーションがおかしいので、「これは中国人?ではないか」と感じました。社長が言うには、「1年以上経っているから、責任はない」と申します。「無償ではなく、有償でもお願いします」と話すと、購入価格の2倍になる20000円を請求されました。「日本では、保障期間が過ぎても売った責任がある」と伝えると、「そんな法律は、どこにあるのですか?」と答える。「法律的には分からないけど、商習慣がそうなっている」と言いましたが、理解が得られませんでした。挙げ句の果ては、恫喝とも思える発言(あなたの住まいまで行って会おうか)がありました。当然、「来てもらっても良いですよ」と答えると電話が切れました。「楽天」と言う会社を信用していたのに、正直がっかりです。「楽天」も、この様な会社を加盟店から除外するなど、厳しい処分が必要だと思います。それにしても、会話さえまともに成り立たない、中国人でも営業できるとは驚きです。さて、葬儀も無事終わりましたが、父の人徳か?毎晩誰かがお悔やみに、自宅を訪ねて来られます。来られる度に、「こんな事をしてもらった」「優しい人やった」など、外では評価が高い様で、「本当に外面が良かったのやね」と苦笑してしまいます。毎晩、夕食の時間になると、お酒やビール、酎ハイなどを仏壇に供えますが、美味しく飲めているのかは、わかりません。(写真は、小浜新港で釣りを楽しむ子ども達と、濱の湯から見た停泊中の雲龍丸と、濱の湯の外観です)
父が亡くなりました。
2015/08/25
「本日は、お忙しいなか父・福井佐兵衛の告別式に、ご弔問いただきありがとうございます。父・佐兵衛は、90歳を超えてもパソコンを趣味にし、デジカメを操る近所でも評判の「スーパーおじいちゃん」と呼ばれていました。ここ2〜3年は、入退院を繰り返していましたが、それでもそのつど不死鳥の様に蘇りました。今回の入院も無事退院出来るものと信じていました。普段は、会話の少ない親子でしたが、病院での介護中は、一生分に余る会話が出来たと思っています。また、7月15日と8月20日に相次いでひ孫が生まれたことを伝えると、笑顔を見せてうなずいていました。今は、お医者さんから止められていた大好きなお酒を、竹馬の友と飲んでいることでしょう。最後に、父・佐兵衛に生前賜りましたご厚誼に対して、心よりお礼申しあげます。本日は、ありがとうございました。」これが、喪主としてのお別れの言葉でしたが、何回も作り直して嫁さんからOKを頂きました。今回の、父親の闘病生活を見ていると、「人の生き様」とは何なのかと考えさせられました。享年93歳でしたが、最期は足も動かせず言葉も話せず、何よりも食べられなくなってしまいました。死後のお顔は、闘病生活から解放されたのか、非常に穏やかな顔で笑顔さえ浮かべているようでした。私たち夫婦も、父の介護から解放されて、正直にホットしている気持ちがあります。それにしても、葬儀の段取りや、お坊さんとのスケジュール合わせなど、大変な事だと実感をしました。こんな経験は無いに超したことはないのですが、ある意味では良い勉強になりました。この様な事を、「店長日記」にするか迷いましたが、この間、他の話題に触れることが出来ませんでしたので、お許し下さい。(写真は、この先道が無い立石岬と、敦賀原子力館での記念撮影と、敦賀湾に浮かぶ水島の光景です)
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