メガネ・補聴器・光学用品専門店・気軽に何でも相談・滋賀県福祉法指定店
メガネ・補聴器のフクイ メガネ・補聴器のフクイ
メガネ・補聴器のフクイ トップ 紹介 掲示板

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ
「名張・毒ぶどう酒事件」を考えるD。
2010/11/22

(凶器はニッカリンTではなかった?!)「犯行に使われたとされるニッカリンTは、テップとよばれる農薬の一つで、事件当時、テップ系農薬はいくつかの製薬会社が製造していましたが、ニッカリンTの場合、製造過程で主成分のテップの他に、副生成物としてトリエチルピロホスフェートが生成されます。しかし、飲みのこりのぶどう酒からは、トリエチルピロホスフェートは検出されませんでした。このことは、事件後、三重県衛生研究所により行われたペーパークロマトグラフィによる試験結果からもみてとることができます。試験での対照用にぶどう酒にニッカリンTを入れたもの(対照検体)からは、試験紙にRf値0.95(テップ)、0.58(トリエチルピロホスフェート)、0.48(DEPP)がスポットとして発色して現れます。一方、飲み残しのぶどう酒(事件検体)からは、0.95と0.48の二つしかスポットが現れていません。当時の三重県衛生研究所の担当技術官は、飲み残しのぶどう酒(事件検体)からトリエチルピロホスフェートが検出されなかったのは、加水分解により消失してしまったので、検出されなかったとしていましたが、弁護団が国際的にも権威のある学者ら専門家に依頼したニッカリンTに関する様々な分析と実験の結果、ニッカリンTの製造方法によると必ず副生成物として、トリエチルピロホスフェートが含まれ、このトリエチルピロホスフェートの加水分解速度はテップと比較すると非常に遅いことが判明しました。一方、ニッカリンTと異なるS社のテップ系農薬の製造法によると、トリエチルピロホスフェートが生成されないことが化学方程式による数式理論からも実際の実験結果からも科学的に明らかになりました。つまり、飲みの残りのぶどう酒からテップが検出されているにもかかわらず、トリエチルピロホスフェートが検出されないということは、事件に使われた農薬は奥西さんが所有していたニッカリンTではなく、別のテップ系農薬の可能性が非常に大きいということです。それにしても、この事件に対する弁護団の執念を感じさせ、感動さえ覚えました。(写真は、若狭町で買い物を終え車に戻る長女と嫁さんとレストランの向こうに見える三方湖です)

「名張・毒ぶどう酒事件」を考えるC。
2010/11/21

(唯一の物証「歯型鑑定」はインチキだった!)「崩された死刑判決の根拠」「死刑判決の最大の根拠になったのは、王冠の歯型鑑定でした。勝さんはぶどう酒の王冠を歯で噛んで開けたと「自白」しており、公民館の火鉢から発見された王冠のキズ(証19号)と、勝さんが事件後の検証で噛んだ王冠の歯型(証42号)が、顕微鏡写真で一致するというものでした。ところがこの鑑定写真は、右(証19号)が左(証42号)の2倍に拡大されていて、両者のキズがあたかも一致するように見せるための不正写真だったのです!再審弁護団は、このキズを三次元的に測定すると両者はまったく一致しないという新鑑定(写真A・土生鑑定)を提出。再審請求を棄却した名古屋高裁でさえも、この事実を認めざるを得ませんでした。死刑判決の唯一の物証が崩れたのです。死刑判決の根拠となった「松倉鑑定」(1968年)と第5次再審で提出された「土生鑑定」(1987年)。「松倉鑑定」の写真は、素人目では分かりませんが、「土生鑑定」の写真は素人目にもはっきりと違いが分かります。科学は日々進歩しておりますので、この再鑑定がもっと早くなされていたら良かったのにと思います。(写真は、紅葉に染まる蛇谷ヶ峰です)

「名張・毒ぶどう酒事件」を考えるB。
2010/11/20

(犯行機会は勝さん以外にもあった!)「ぶどう酒の「到着時刻」が事件のカギ」「死刑判決は「勝さんが公民館で一人になった10分間以外に犯行の機会はない」としています。本当にそうなのでしょうか?事件当日のぶどう酒の足どりを見てみましょう。@ぶどう酒が懇親会に出ることが決まったのは当日の朝。決めたのは三奈の会会長・農協に勤めるN氏で、農協職員のRさんに購入を命じた。ARさんは村に飼料を運ぶため農協に立ち寄った車に便乗し、H酒店で清酒2本とぶどう酒1本を買い、N氏宅に運んだ。受け取ったのはN氏の妻・F子さん(事件で死亡)。Bその後隣家の勝さんがN氏宅に来て、5時20分頃公民館に運んだ。事件当初、Rさんや酒屋など運搬に関わった村人たちは、「ぶどう酒がN氏宅に届いたのは4時前」と証言していました。公民館に運んだ時刻が5時20分なら、N氏宅に1時間以上も置かれていたことになります。つまり、N氏宅でも犯行機会があったと考えられます。ところが、事件から2週間以上経ってから「ぶどう酒がN氏宅に届いたのは勝さんが来る直前」と関係者らの供述がいっせいに変わってしまうのです。しかしこの証言では矛盾が生じます。ぶどう酒をN氏宅へ届けたRさんはその後、5・7キロ離れた広島屋へ自転車で折り詰め弁当を取りに行っているのですが、広島屋の証言によるとRさんが来た時刻は5時10分。ぶどう酒がN氏宅へ到着した時刻が勝さんが取りに来た5時20分の直前であるはずがないのです。第一審・無罪判決は記憶が新しい事件当初の供述を採用し、「勝さん以外にも犯行機会はあった」とし、村人たちの供述の変更については「検察官の並々ならぬ努力の所産」と捜査当局の意図的な供述操作を痛烈に批判しました。しかし、二審では変更後の供述を採用し、「勝さんにしか犯行の機会はない」として、有罪・死刑としたのです。「酒を売ったH酒店」「Rさんに売ったのは2時半から3時頃」→「4時を過ぎていたのではないかと言われれば、あるいはそうでないかと思います。確かなのは昼ごはんと夕ごはんの間ということです」。「酒を運んだRさん」「2時頃農協を出て酒を買った。Nさん宅に届けたのは2時か3時頃」→「Nさん宅に届けたのは4時半から5時の間違いでした」。「N氏宅にいたI子さん」「検察官は初期の供述を公表していない」→「5時10分にF子と一緒に受け取った。忘れた。5時のサイレンより前だったかもしれない」。まあ、人の記憶などこの様なものかもしれませんが、それで無罪が死刑になったのでは、何ともやりきれません。(写真は、若狭町にある縄文・ほのぼの市と梅から作ったワインです)

「名張・毒ぶどう酒事件」を考えるA。
2010/11/18

次々と崩れる物証と事実関係の矛盾。「自白は信用できない」(証拠がない疑問だらけのストーリー)「勝さんは、@犯行前夜自宅にあった農薬・ニッカリンTを竹筒に入れ、丸めた新聞紙で栓をして犯行を準備し、A農薬のビンは当日の朝、近くの名張川に捨て、B公民館にぶどう酒を運び、一人になった隙に竹筒内のニッカリンTを混入し、C竹筒を公民館のいろりで焼いた、と「自白」しています。ところが事件直後、名張川を大々的に捜索したにもかかわらず、農薬ビンはかけらも見つからず、公民館のいろりから竹筒の燃えかすもリンの成分も発見されていません。「自白」を裏付ける物証は、何ひとつないのです。また、懇親会でぶどう酒がふるまわれることが決まったのは当日。それなのに「前日から犯行の準備をしていた」という「自白」は何とも奇妙です。さらに、公民館でぶどう酒にニッカリンTを入れるという肝心の場面の時期や状況についての自白内容がころころと変わり、「ここが一番はっきりしない点だ」と勝さんは言うのです。一生忘れられないはずの犯罪決行の時のことを覚えていないはずがあるでしょうか。さらに、三角関係の清算が犯行の動機とされていますが、勝さんと妻、愛人はいつも連れだって仕事をし、三人で仲良く映画に行ったりと、全然深刻さがなかったというのです。(反社会的行為ですが当時、この辺りでは普通にあったそうです)この他にも事実関係と自白内容には数々の矛盾があります。それもそのはず、「自白のストーリー」は捜査官のでっち上げで、新しい証拠がでるたびにつじつまをあわせるため、話が二転三転させているのです。勝さんは「全部調べが終わったら本当のことを聞いてやる」と言われ、最後になって無実を主張するまで話を聞いてもらえなかったのです。」私にも経験がありますが、刑事が遺留品のメガネを持参して「これから分かることがあるか?」と聞くので、メガネの度数、レンズメーカー、フレームメーカー、削ったレンズの機械メーカー、と細かく説明しました。ところが、「あそこの誰々は、仕事してないけどどうしとるの?」「別の誰々は、近所ともめ事が多いみたいやけど?」と予断で犯人を決めにかかるようです。さて、「大阪辺りでは信じられない!」でしょうが、「安曇川は、今日も雨だった」となっております。(写真は、近所の庭にある柿の木です)

「名張・毒ぶどう酒事件」を考える@。
2010/11/16

昨夜、安曇川町の「ふれあいセンター」で「国民救援会・高島支部」主催の講演会があり、前から関心があったので店を早じまいして参加しました。講演者は、国民救援会・愛知及び中央本部副会長で、死刑囚・奥西勝さんの特別面会人である稲生(いのう)昌三さんで、熱のこもった講演でした。名張毒ぶどう酒事件のあらまし「三重県の山間部をのどかに流れる名張川の上流、奈良県との県境にある小さな村落ー名張市葛尾。谷あいの一本道に沿うように、二十五戸の農家が点在し、ほぼその中心の小高い丘にポツンと建つ「蔵福寺」は、村人たちが公民館として使う無住の寺である。1961年(昭和36年)3月28日、夜8時から公民館で開かれていた村の生活改善クラブ「三奈の会」は、総会を終えて懇親会に移った。男たちには清酒が、女たちにはぶどう酒(白ぶどう酒であったそうです)がふるまわれ、32人が参加者たちは和やかに祝杯を挙げた。そして事件は起きた!突然女たちがもがき苦しみだしたのだ!驚いた男たちは遠方から医師を呼んだが、その甲斐もなく5人が死亡、12人が中毒症状を起こしていた。女たちが飲んだぶどう酒に農薬・「テップ剤」が混入されていたことが、検査の結果明らかになった。いったいだれがこんな事を・・・!?静かな村をいきなり襲った大量毒殺事件は村人をパニックに陥れ、世間をも恐怖させた。一刻も早く犯人を!捜査の行方はマスコミの注視の的となった。「村人の中に犯人がいる」そう断定した警察は事件当日ぶどう酒の購入・運搬に関与した三人の村人を重要参考人とした。とりわけ、死亡した五人の女性の中に妻と愛人がいた奥西勝さん(当時35歳)は、「三角関係の清算」という動機があるとして、警察から厳しい追及を受けた。勝さんは否定し続けた。しかし、事件直後から連日ジープで連行されての長時間の取り調べ、さらに自宅にも警察官が泊まり込み、就寝から排便にいたるまで監視されるという中で、ついに勝さんは嘘の自白をさせられてしまう。「妻と愛人を殺すため、公民館で一人になった隙に、自宅から用意してきた農薬・ニッカリンTを混入した」と。勝さんは起訴された。しかし、勝さんは起訴直前に自白を撤回し、以後一貫して無実を主張している。」。私も命があるかぎり頑張ります。「殺人・殺人未遂罪」で起訴された奥西勝さん(当時35歳)は、裁判で一貫して「無実」を訴えました。一審・津地裁は詳細な事実調べの結果、勝さんの主張を認め無罪を言い渡しました。しかし検察官が控訴。二審・名古屋高裁は勝さんの犯行と認定し、一転死刑判決(過去に例がないそうです)を下したのです!勝さんは最高裁へ上告したものの棄却され、1972年(昭和47年)に死刑が確定してしまったのです。以後今日に至るまで、勝さんは獄中から裁判のやり直しを求め続けています!(奥西勝さんを死刑台から取り戻す全国ネットワーク)のりーフレットより。まだ先がありますので、本日はここまでにしておきます。(写真は、朽木・てんくう温泉と名物のの品々です)

ちょっとローカルな話を。
2010/11/15

昨日は、日曜日と言うのに見たいテレビがなく偶然つけた「びわこ放送」で高校ラグビーの滋賀大会決勝戦を放送していました。ここ4年ほどは、新進の「光泉学園」が元日本代表の薬師寺監督の指導で急速に力をつけてきました。かつての花園の常連である「八幡工業高校」が5年ぶりの雪辱なるかとの試合でした。結果は、八幡工高22−5光泉学園で八幡工高が5年ぶりに花園への切符を手に入れました。試合内容としては、両チームともミスが多くまだまだの感じはしましたが、「へたくそ」なりの面白さはありました。滋賀県では予選に出場するチームが8校しかなく、3試合目が決勝戦となりますので、レベルアップが必要です。最近のラグビー事情としてはこれが現実で、どこでも15人のメンバーが揃わないと聞いております。これからは、ラグビーシーズンの到来で、大学ラグビーも上位対戦が増え、好試合が期待できるので楽しみです。ただ、我が愛する「同志社」が今年は「からしき弱く」ちょっと寂しい気がします。さて、今日の安曇川は、朝から「晴れてるのに雨が降り」と言った状態で「高島しぐれ」の時期になりました。きっと、大津市あたりは快晴なのに、「ここら辺は雨ですね」と遊びに来た人に言われる時期になりました。合い言葉は「弁当忘れても、傘忘れるな」で、「高島しぐれ」が収まる頃には「白いものが舞う」季節に入ります。(写真は、秋深まる小浜港の光景です)

もう1週間が過ぎ去りました。
2010/11/11

10日は、障害のある長女が施設から3週間ぶりに帰省して来たので、一番好きなプールとお風呂に入るため敦賀市にある「リラ・ポート」に行きました。いつもなら、休憩も兼ねて「鞠山海つり公園」に立ち寄るのですが、急に天候が悪くなり雨が降り出し、「お天気女」の長女には珍しい事でした。「おかしいな。安曇川は晴天だったのに、こんなに雨が降るなんて」「今日は、雨女の嫁さんの勝ちかな?」なんて車内で話していました。最近、長女も少し飽きてきてプールに30分も持てばいい方で、好きなお風呂でも40分が限度になりつつあり、両方で2時間弱で済んでしまいます。「リラ・ポート」を出ると、ちょうど12時でしたので、大好きな「回転寿司」に行きました。寿司を食べるより、「唐揚げ」「ラーメン」「ケーキ」「ポテトフライ」「チョコアイス」と決まったように食べます。時々「軍艦巻き」の「納豆」や「エビフライ」は定番になっていて、あまり「握りもの」は好きではないようです。さて、まだ時間が早いのですが、取りあえず若狭町の「梅」を求めて国道27号線を西に向かって走ります。ここでの長女は、毎回「梅せんべい」さえ獲得すると、さっさと車に乗り込んでしまいます。ここからは、国道162号線を経由して海沿いを走りますが、風が強く白波が打ち寄せていて「今日は、誰も釣りをしていないなあ」と嫁さんがつぶやいていました。30分ほどで小浜市内に入りましたが、やはり漁港では釣り人がなく「がらん」としていて海が寂しそうでした。午後3時過ぎと時間が早いので「もう1回、お風呂に入ろうか?」と提案しましたが、あっさりと却下されてしまいました。「たまには、早く帰って休憩するか?」と言うことで、午後4時過ぎには安曇川に戻って来ました。夕食前に外に出て北の空を見ると、「しぐれ雲」が広がっていて「もう冬が、そこまで来ている」と言っている様でした。(写真は、北に広がるしぐれ雲と夕焼けに染まる南の雲です)

祭日の定休日。
2010/11/04

普段は定休日の水曜日が祭日になる場合、翌日に変更するのですが昨日の「文化の日」は、珍しく休業しました。親戚のおばさんが入院しているので、一度はお見舞いにと考えていて、嫁さんに「早くしないと退院しはるで!」と背中を押されました。病院は、奈良県・高の原ですので近鉄・京都線でも行けたのですがお見舞いのお花や、何やら手荷物が多いので車で行く事にしました。安曇川を出発したのが午前10時だったので、順調に行けば午後0時頃には到着するはずでした。ところが、「湖西道路」に入り「真野インター」辺りから渋滞が始まり、「雄琴インター」ではほぼ動かないという「どなおなってんねん」状態になりました。挙げ句の果て「唐崎インター」で「事故発生」の掲示があり一般道に下ろされました。「祭日はこれやから出たくないねん!」とぼやきましたが、もはや「あとの祭り」です。名神・京都東から京都南までは順調に進みましたが、名神高速を下りて枚方バイパスに乗った時は、すでにお昼近くになっていました。「混雑したらいややから、お昼も早いめに摂ろう」と提案し「この先に、かっぱ寿司があるはずや」ということで入店しました。入った時は空席が目立ちましたが、出る時はほぼ満席で「この作戦」は成功しました。(そんな、たいそうな)さて、国道24号線から「京奈和道」を走る事30分、予定よりかなり遅れって午後1時30分に到着しました。お見舞いが終わり、病院を出たのは午後2時30分になっていましたが、「帰りは京滋バイパスから草津に出よう」「ついでに、建築中の息子の家を見て行くか」との結論になりました。草津市は高島市と違い、続々と家が建築中で活気は違います。「まるで、夢みたいやな」「この勢いの違いは何だろう」「高齢化が進み衰退しつつある町と若者の仕事があり人口が増加する町の違いやね」と思いました。「秋の日のつるべ落とし」ではないですが、午後5時になっていて急いで帰宅しないとと思いましたが、嫁さんが「今日は、温泉に寄らないの」との質問に、帰路にある「比良とぴあ」に立ち寄りました。車の置ける場所が無く「これは、相当の混雑やで」と覚悟を決めて入りました。館内は「芋の子を洗う」状態で、ゆっくりと楽しむなどという事など出来ず早々と風呂から上がりました。本日の結論は、「休みの日は、出掛けずに家でじっとしていろ」という事でしょうか?(写真は、趣味で作られている手まりの数々です)

10月も終わりですね。
2010/10/31

「「きょう100歳の入所者が亡くなりました」。全国に13あるハンセン病国立療養所の一つ、多摩全生園(東京都東村山市)の取材で最初に伝えられたことです。ハンセン病の国内発症者はもういません。仮に発症しても薬で、顔や手足に後遺症を残さず完治します。療養所にいるのは「元患者」の人々。高齢化し入所者は年々減っています。○・・・医療・介護の場となった療養所。豊かな緑、平屋の質素な住居、納骨堂、小さなお寺や教会ー時間が穏やかにゆっくりと流れていくように感じます。しかし、かつて患者を強制隔離し、家族との関係を断つため改名させ、子孫を残さないため断種を行い、過酷な作業を強いてきた場所でもあります。隔離政策は1996年まで続きました。元患者は療養所で生きていくしかなくなりました。○・・・全生園が地域に開かれ保育所が誘致されることになりました。全生園の入所者で全国ハンセン病療養所入所者協議会の神美知宏会長(76)は、目を閉じるようにして今回の決定の評価、国のハンセン病問題への対応の遅れを理路整然、よどみなく話されました。○・・・最後は雑談風になりました。青春の思い出、さまざまな人を束ねる運動の難しさ。そして−。「入所者は、人生の最期ににせめて自分が生まれたふるさとを一目見たいと思っている。でもそれさえ許されない・・・。家族は『帰っておいで』とは言わない。私たちは死ぬことによって家族を救えるんです」ー神さんの目が赤く染まっていました。」(26日付けしんぶん赤旗「まど」より)私自身、ハンセン病の事は詳しく知りませんでしたが、映画「エレファントマン」が多分そなのではないかと思っています。それにしても、世界的にはもっと早く治療法が確立していたでしょから政府の責任は重大ですね。さて、早いもので10月も終わろうとしていて、カレンダーも残すところ二枚になりました。(写真は、郡上八幡城内の、貝あわせと一豊の妻、千代の名文句です)

店長の日帰り旅行C。
2010/10/28

郡上八幡から、再び東海・北陸自動車道に入り岐阜県・白鳥(しらとり)インターに向かって北上しました。さらに、白鳥で高速道路を下り国道158号線で九頭竜湖まで走りました。この国道158号線は、その昔織田家が福井から尾張に向かう時に利用したと伝えられています。現在は、別名恐竜街道と呼ばれているそうで、それは国道の周辺で恐竜の化石が相次いで発見されたからでしょう。この道を利用するのは、今回で3回目になり、一度は飛騨・高山の帰路に、そしてもう一度は、飛騨・白川郷の帰路に利用しました。この時期までなら利用するのも良いですが、真冬になると豪雪地帯なのであまりお勧め出来ません。JR越美北線の終着駅の九頭竜湖駅が「道の駅くずりゅう」になっていて、取りあえず福井県まで戻って来たので一息入れました。時計はすでに午後4時過ぎになっていましたので、日没までに帰宅するのは断念しました。「そう言えば、この近くに温泉があったな?」「こちらからだと国道の右側にあったはずや」そんな話をしていると、「平成の湯」の看板が見えて来ました。「遅くなったついでや。入っていくか?」と言うことで入浴することにしました。「平成の湯」は、山の斜面にあるこじんまりとした温泉でしたが、なかなか良い温泉でしたし、入浴料も500円と安く、おまけに障害者割引で長女は半額でした。入浴後、「そう言えば、ここは大野市になるので熊が出てきた所やな」「さっきもそれが気になって、ゆっくり露天風呂に入れなかった」と嫁さんが話していました。日も暮れて、真っ暗になった頃福井市内にたどり着き、北陸自動車道に乗り、ひたすら敦賀市内に向けてスピードを上げて走りました。帰宅したのは午後7時でしたから、午前8時に出掛けてから11時間近くのドライブになり、本日の走行距離は、実に415qになっていました。(写真は、道の駅くずりゅうの恐竜と平成の湯の外観です)

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ


Copyright (C) 2006メガネ・補聴器のフクイ. All Rights Reserved.
お問い合わせ